総括。惨状の日本から生まれたドラマ「まれ」最終回

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朝ドラ「まれ」(NHK 月〜土 朝8時〜)9月26日(土)放送。第26週「希空ウエディングケーキ」第156話より。脚本:篠崎絵里子(崎の大は立) 演出: 渡辺一貴


156話は、こんな話


2015年8月10日、徹(大泉洋)も戻ってきて、希(土屋太鳳)と圭太(山崎賢人)の結婚式がはじまった。家族、能登の人々・・・に祝福されるなか、希は「故郷って場所じゃのうて ほこで会われた大切な人たちなのかもしれんって思いました」と挨拶。それから「私は夢が大好きです」と微笑んだ。

「まれ」が挑んだもの


「ハレとケ」という言葉があって、「ハレ」はお祝い事などふだんと違う日、「ケ」は日常を言います。
「まれ」全156回のうち、希にとってパーッと華やいだハレの日は、最終回の結婚式だったようです。
今までずっとカジュアルな服を着ていた希が、若さの象徴・デコルテと二の腕全開、肌を輝かせたウエディングドレスで別人のようでした。
世界一のパティシエになるとか、すくなくともそこにかなり一歩近づくとか、そういう自己実現をして終わっていくことがきっと「ハレ」だと、ドラマがはじまった頃は想像していました。「夢が嫌い」と言いながら、本当はあふれるほどの夢をもっている少女が、次第に夢に一直線になっていくのだろうと。
ところが、「まれ」はそうではなかった。
確かに、次第にケーキづくりの夢を自覚して、そこに向かっていきはしたのですが、一筋縄ではいかず、希は“夢に向かう人間はこうであれ!“という定式をことごとく裏切り続けました。
夢を獲得するには、まずは下積みの苦労をたくさんしないといけないし、夢に集中してほかには目をくれないものだと、我々はなんとなく感じています。でも、「まれ」ではそれがありません。
希の師匠も「何かを得たければ何かを捨てろ」とは言うものの、彼もまた仕事と家族をもっていましたし、希も仕事がようやく軌道にのってきたところで、結婚、地元に戻る、出産を体験します。
百歩譲って、仕事と家族を大事にするのは良しとしても、それに伴う、ものすごく大変な毎日の彼女の労働の数々やそれによる心身の疲弊などはほとんど描かれず、希はショートカットキーを使うようにたやすく結果にたどりついて見えます。こんなにうまくいくはずないと違和感を唱える視聴者もいました。
「まれ」では奇妙なほど、こういった下積みの苦労が描かれないうえ、さらには、不幸も描かれません。以前書きましたが、戦争も震災も出てきません。
先輩職人や姑の嫁いびりすらマイルドでした。友達の嫉妬と裏切りも出てきましたが、あっさり解決します。
父親が二度も自己破産して、二度目に至っては社員から脅しを受けるというエピソードも出てきて、これは本来、非常に重いことなのでしょうけれど、リアルな描写は徹底的に排除されていたのです。
SNS をざっと見てみると、暢気すぎる、リアリティーがないと指摘する視聴者がいる一方で、そのほのぼのしたところを楽しんでいる視聴者も確実にいるのです。
前者の状況を、このレビューでは「つっこ『まれ』」と呼び、主にそちらの視点で書いてきました。こんなふうに、視聴者が「まれ」のここがヘンだよとツッコミどころを探す隙間のあった「まれ」は、それによって一種のドラマを見る楽しみをつくったことは事実でしょう。
24話の「文さんクイズ」に熱狂する家族たちや、139話でテレビの流行語になってるらしい「なめすぎ〜」をみんなでマネし、156話では高志がビデオカメラに向かってやったポーズを見ているみんながマネする描写をわざわざ入れているということは、我々視聴者とテレビの相互関係を意識しているに違いありません(テレビをつくっている人に話を聞くと、素人の想像以上に視聴者にチャンネル変えたり切ったりされないように考え抜いているんですよね)。

すべて制作陣は自覚的なのだと想像します。自覚的に、「まれ」を、我々がいつのまにかがんじがらめに囚われている夢の実現はこうあるべきであるという法則を解いてく物語をつくったのだと。
「夢は必ず叶う」とこれまで多くのドラマは語ってきました。そのためには不幸をバネにすること。下積みすること。何かを諦めること・・・、そんなことが繰り返し語られてきました。
そして、その夢は非凡なものでした。最近の朝ドラだと、「あまちゃん」のアイドル、「花子とアン」の翻訳家、「マッサン」のウイスキーづくりなどですね。

夢は必ず叶うのか?


はたして本当にそれがベストなのか? 
夢は必ず叶うのか? 苦労したら叶うのか? 何か特別なことを成さないといけないのか? お金持ちにならないといけないのか? 世界に挑むような大きな夢じゃないといけないのか?
「まれ」は問いかけ続けていた気がします。
書き留めたいような名言もたくさん出てきて、最終回ではそれが回想されました、名言があるうえに、主人公の希が定式どおり、喪失や諦めを体験しながら努力と根性でたったひとつの夢に向かっていく物語だったら、想定どおりで、それはそれで満足ですが、自分でなんにも考えることができません。希っておかしい。→希みたいになりたくない。→じゃあ、自分だったらどうするのか? ってことを、「まれ」を見てじりじりする神経は思考に変わりました。
ショートカットされて描かれなかった様々な夢への過程は、視聴者ひとりひとりに託されたのです。
また、このドラマを見て、隙間を何も考える必要性を感じず、毎日ほのぼの楽しかったひとたちは、希みたいに世にも稀なショートカット人生を実際送っているか、そういうふうに生きたいと思っているひとたちで、そういう人たちもいるってことなんですから、その事実は認めないとなりません。ほのぼのしてるようで気持ちよいほど冷めて突き放した作品です。

さて、そんなドラマが生まれたわけは、戦後、再生の大きな夢に向かってガツガツ努力してきた日本が、70年後にあまり幸せになってない、この惨状なんではないかという気もします。
そういうことを身を以て感じている世代の物語が近年、生まれてはきていましたが、とくに「まれ」は、日本の精神性を描くことへの大きな分岐点になった気がします。
ラストシーンは、希がフランス菓子ではないスポンジケーキをお店の名前をつけて(つまりお店を代表する一品ってことですよね)作り、厨房でメレンゲを泡立て、ピン! と立った角に満足そうに微笑む。
「まれ」は主人公がようやくたどりついた、日々続いていく、特別ではない日常の誇らしさ、で幕を閉じます。
でも、また次の「あさが来た」は、日本が希望に満ちてガツガツと変化していく幕末から大正期のドラマなんですよね。
(木俣冬)

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