『育将・今西和男』連載第8回 
■門徒たちが語る師の教え FC町田ゼルビア 李 漢宰(2)

 2001年、ハンジェの本契約は母校の広島朝鮮高級学校で行なわれた。今西は「お前の練習態度やサテライトリーグ(※)での活躍を見た。今は知られていなくても、将来お前は絶対にものになるから、契約内容を改めて同期の新人と比べても遜色の無い契約内容にした」と仮契約のときよりも高い条件でサインをさせてくれた。これには感激した。「正直、僕は高校生で、お金の感覚というのがまったく無かったんですが、その言葉が本当にありがたくて、このチームのために力になりたいと心から思えたんです」
(※実戦経験の少ない若手選手のために、2009年まで行なわれていた育成リーグ)

 サンフレッチェ広島の同期入団選手は闘莉王、林卓人、西嶋弘之、寺内良太、河野淳吾、梅田直哉と他に6人いたが、今西の慧眼はまたも発揮された。全国的には最も無名であったハンジェは、サンフレッチェの在籍がその中で最も長く、9年を過ごした。節目となる10年目はクロアチア代表のミキッチの加入もあり「戦力外」ということになったが、ハードワークを厭わず、プレースキックも蹴れるユーティリティプレイヤーに対する他チームからの評価は高く、2010年にコンサドーレ札幌からのオファーを受けて移籍する。石崎監督からの期待もあり、新天地でのモチベーションは高かった。「自分にとっても選手として一番いい時期で、リ札幌でキャリアハイのパフォーマンスが出来るような自信がありました」

 しかし、希望に満ちたはずの2010年が意外なことをきっかけに暗転してしまう。

 コンサドーレの開幕前の1次キャンプはグアムで行なわれることになっていた。朝鮮籍であるハンジェは米国に入る場合、ビザ取得にかなりの時間を要する。そのことがわかっていたので「グアムに行くためのビザの手続きを早めにお願いします」と早々にクラブに頼んでいた。しかし、スタッフは米国と北朝鮮の関係を甘く見ていた節があった。「大丈夫だ」と言うばかりで、手配が遅々として進まない。本人も何度も札幌の米国領事館に足を運んでプッシュをかけたが、結局キャンプ出発の日が来てもビザは下りなかった。チームが温暖の地で1ヶ月のキャンプを張る間、寒い日本に一人で取り残されることとなってしまったのである。その上、練習場の確保も「まあ、ハンジェなら自分で出来るよね?」と言われてしまう。まだ雪が深い札幌での練習は到底無理である。

 仕方なく上京し、伝手(つて)のある東京朝鮮高校の練習に参加する形でたった一人でトレーニングを開始した。最初はホテル住まいであったが、それを続けるわけにもいかず、小岩の知り合いのところから、毎日電車で北区の十条まで、ひと月の間通い続けた。

 チームとは2次キャンプの熊本で合流した。しかし、暖かいグアムでフィジカルをみっちりと鍛えてきた他の選手とのコンディションの差は歴然としていた。開幕までは、もう3週間しかない。気負い込んで負荷の強度を上げていったが、開幕の2日目にレギュラー組から外されてしまった。そこで取り戻さなくてはいけないという気持ちが余計に働いて、無理を重ねた。すると開幕後、サブで2試合出場した直後の練習試合のウオーミングアップ時に、ケガを負ってしまう。

「その段階でしっかり治してと切り替えることが出来れば良かったんですが、チームが求めてくれているんだから自分もやろうという気持ちが強くてプレーを続けました。完全でないのなら、休むというプロの選択が出来なかったのが、今思えば、経験が足らなかったかなと思います」

 右膝に大きな違和感があったにもかかわらず、90分フルで試合に出てしまったのである。その後、軟骨が剥がれているという診断が出た。それでも、そこから1ヶ月膝に水が溜まるのもかまわず、ベンチ入りを続けた。これが致命的であった。悪化して手術をするに至るも、そこから一向に回復しなくなってしまった。

「リハビリしても治らない。ここまで追い込まれたのは初めてでした」。1年経っても完治せず、札幌では活躍が出来ないままに、契約満了で退団となった。サッカーを続けたいが、治療中の身ではどこからもオファーがかからない。自分からアプローチしてもダメだった。

「どうしたいかを見つめ直すと、サラリーやチームのレベルは問題じゃない。僕はただサッカーがしたかった。そこでふと、思い出したんです。『あ、今西さんがいる』と」

 今西はサンフレッチェの総監督を辞した後もクラブ顧問を務めていたが、2008年に請われてFC岐阜の社長に就任していた。

 「ちょうど僕が札幌でケガをしているときに、岐阜との試合で、スタンドでばったり会ったんです。そのときに実はびっくりしたんです。ものすごくやつれていて、僕が知っている今西さんの顔じゃなかった。そんなに辛い経営状態の中、岐阜で頑張っているんだと。それに対して助けたいという気持ちと、もう一度サッカーをしたいという気持ち。一からやり直すには今西さんしかいない。それで何年かぶりに今西さんに電話したんです。

 今はこういう状態ですけど、サッカーがやりたいんですって。そうしたら、『ハンジェは広島から移籍してきて年俸も高いし、うちでは払えないんだ』と言われたんです。いや、僕はお金は要らないです。本当にもう一度サッカーがしたい気持ちだけでお願いしています。今はこんな膝なので動けない。ただ、必ず復帰して力になれる自信はあるので、何とかしてくださいと言ったら『わかった。一応スポンサーに聞いてやってみる』と。

 そうしたらもう次の日です。電話がかかってきて、『オーケーだ』と。しかも『治ったらお前がやれるのはわかっているから、それまで治療に専念してくれていい』とまで言ってくれたんです。だから、僕が入団記者会見で述べた言葉というのは、今西さんにすべてをささげたいと。岐阜が低迷しているのも知っていましたし、何とか自分が復帰して、少しでも上の順位に持って行きたいという気持ちが強くて、覚悟は相当があったのを覚えています」

 ハンジェは年俸が激減するも、懸命なリハビリで翌年には復帰を果たして、ボランチのレギュラーとしてチームを牽引する。

 2013年、突然今西が志半ばで、経営責任を問われる形で解任を余儀なくされる。ハンジェは発表のあった試合後、一人で号泣した。多くの岐阜のサポーターやスポンサーが指摘するように、すでに経営が破綻していたようなクラブがJ2でやって来られたのは、途中から社長就任の依頼を受けた今西が火中の栗を拾ってくれたからである。しかも引き継いだ億単位の借金を背負わせたままの解任であった。ハンジェの涙はいつまでも止まらなかった。

今、FC町田ゼルビアでキャプテンとして、今西の意志を継いでいる。

「ゼルビアに今西さんが係わっているわけじゃないですけど、やっぱり僕も似たように大事にしている部分があるんです。プロとして、社会人として、まずあるべき姿というのを大切にしたい。一人の人間として成長することで、チームへの還元というのはできると思うので、そこをもっとみんなが自覚を持ってくれるように引っ張っていきたいと思っています」

【profile】
●今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)−東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

●李 漢宰(り・はんじぇ)
1982年6月27日、岡山県生まれ。広島朝鮮高級学校から、2001年サンフレッチェ広島に入団。翌年、プロデビューを果たし、北朝鮮U-23代表にも招集され、釜山アジア大会に出場した。2004年には北朝鮮A代表にも選ばれ、翌年のW杯アジア最終予選では日本代表とも戦った。2010年J2コンサドーレ札幌、2011年J2FC岐阜、2014年J3FC町田ゼルビアに移籍。キャプテンとして、J2昇格を目指すチームを牽引している

木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko