戦時中の日本の航空技術は、その後のロケット開発にも貢献した。そこには、GHQの「航空禁止令」に負けなかった男たちがいた。元航空エンジニアでノンフィクション作家の前間孝則氏がつづる。

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  戦時中、国民に圧倒的な人気を誇っていたのは零戦ではなく、三菱重工と双璧をなしていた中島飛行機製の「一式戦闘機・隼」だった。その隼の空力計算を担った人物に、後に「日本の宇宙開発の父」と呼ばれる糸川英夫がいた。

 敗戦を迎えGHQから航空機の設計や研究を禁じられた「航空禁止令」が下されると中島飛行機の技術者たちは、散り散りになり廃業する者もいた。東大で無人誘導弾の研究をしていた糸川も「飛行機屋失業」で「陸に上がった河童」となったが、敗戦に打ちひしがれてはいなかった。

 糸川は中島飛行機時代から「共振(フラッター)」なども専門としていた。そこで東大病院の医師から声を掛けられ、「脳波診断器」の研究に打ち込む。また、大学では「音響工学をやる」と宣言し、バイオリン製作なども行った。

 主権回復後の昭和28年、米国の有人宇宙飛行計画を知った糸川は、かつての航空研究者などに呼びかけた。

「ロケットをやろうじゃないか」

 この呼びかけには、中島飛行機の流れをくむ富士精密工業のエンジン技術者・中川良一や戸田康明らも応じた。世間がジェットエンジン開発へ邁進する中、富士精密工業は一歩先のロケット研究を見据えていたのだった。ここにかつて最先端を追求し先進すぎる企業とまでいわれた旧中島飛行機の英知が再集結した。

 糸川らは昭和30年、日本初となるロケット(ペンシルロケット)の発射実験を成功させる。それを皮切りに、次々とロケットのシリーズを開発し、「ロケット博士」「日本の宇宙開発の父」と呼ばれることになった。

 糸川をはじめとした日本の技術者たちは時代の常識を超え、突飛とも思える夢やアイディアをぶち上げていた。ときに糸川らは「大言壮語の山師か!」と言われつつも、目標に向かってまっしぐらに突き進んだ。その突破力が重苦しい占領下の時代であっても変わることはなかったからこそ、日本は航空宇宙技術の花を咲かすことができたのだ。

※SAPIO2015年10月号