つい先頃まで、世界陸上競技選手権大会が中国・北京で行われ、各国のアスリートたちが華麗で激しい戦いを繰り広げた。しかし、数々のドラマの陰で、長距離選手らが貧血対策として使用する「鉄剤」が問題視されている。その効果を過信し、ジュニア時代から大量に投与し続けると、造血能力が衰え、体に悪影響を及ぼす例が出ているのだ。
 一般的に「鉄分」に対する理解度は薄いが、不足すると貧血症や鉄分欠乏症に陥り、さまざまな病気を招く。逆に、過剰摂取すると動脈硬化や肝硬変、心臓血管病などの重大疾患につながる。
 そこで鉄分と健康の正しい知識と理解を得るために、専門家の意見を聞きながら、健康で丈夫な体づくりを探究してみよう。

 鉄分は、五大栄養素の一つであるミネラルに該当し、すでにギリシャ時代には貧血治療に用いられていた。私たちが酸素を摂り入れる上で、欠かせない要素である。体の中に蓄えている鉄分の量は、成人男性で約4グラム、女性では約2.5グラム。その中の約70%は赤血球の核となって、体の隅々まで酸素を運ぶ働きをしている。だが、このバランスが崩れると体に異常が起きる。
 ある長距離選手の指導者はこう説明する。
 「減量した方が効率のいいマラソン選手などは、食事制限などでなお軽くしようとする。しかし、練習で無理をすると貧血を起こす選手、特に女性選手が顕著に増えるため、指導者は目先の試合を重視し、疲労回復の効果もある鉄剤の注射で対応するようになる。すると、急激な回復効果を実感し、指導者も選手も鉄剤に依存し始める。言葉は悪いが中毒性があるのです」

 鉄剤を乱用していると深刻な依存症に陥る上、選手の造血能力も衰えてしまう。また、体の骨がもろくなり、筋肉や腱も弱くなる。最近は沈静化したが、以前は鉄剤を使用するジュニア選手が増えてひどい状態だったという。
 医療ジャーナリスト・船津登氏もこう語る。
 「貧血防止や持久力アップを求めて、鉄剤を使用する高校や大学の運動部員がいました。そうした背景には、駅伝人気の過熱がありますね。高校の指導者は約2年半で成績を上げないと、自分の実績にも生徒の進学にもつながらない。それを中学校の指導者が見て、同じ傾向になっているという話も聞きます」

 マラソンなど長距離選手に必要な持久力を支えるのは、体全体に酸素を運ぶ血液中の赤血球。その中心がヘモグロビン(Hb)で、鉄はHbをつくるのに欠かせない。
 激しいトレーニングによる大量の発汗で、体内の鉄分が失われる分、アスリートが一般人より多く鉄分を補給するのは、以前からの常識だった。ただ、貧血の診断がないまま、点滴で鉄剤を注射すると「正当な医療行為」にはならず、“ドーピング違反”と見なされる恐れもある。
 手軽に入手できるサプリメントや錠剤も、過剰摂取にならないよう管理が必要である。一歩間違えれば、アスリートの人生を左右することになりかねない。
 スポーツ医学に詳しい日本血液学会会員・飯ケ谷智久医師は言う。
 「鉄剤を静脈注射するのは、胃潰瘍で出血があるときなど、経口投与できない場合や緊急のときです。しかし、通常の貧血程度なら、適切な量の傾向薬を使うべきで、注射をするなんてとんでもない。錠剤の場合は10%程度しか吸収されないが、注射は100%体内に入る。これを繰り返すと、過剰な鉄が内臓などに沈着し、肝機能障害や肝硬変、糖尿病などになる危険があります」