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○『テッド2』と『ど根性ガエル』の共通点

映画『テッド2』を見たあとにドラマ『ど根性ガエル』を見ると、この二作品には共通点が多いことに気づきました。

成人男性と、人間ではないが人間の感情を持つ相棒が主要な登場人物であるということや、人間以外の相棒のほうがタイトルにくること、成人男性と相棒は、子供のときから共同生活を送り、親友以上の関係性であること、成人男性がダメなキャラクターであることなどが共通点としてあげられるでしょう。

ぬいぐるみのテッドとジョンは30年近くを共に過ごし、平面ガエルのピョン吉とヒロシも16年を一緒に過ごしました。また、テッドはクマのぬいぐるみであるだけに、人間と同じ生活をしていても、所有物と判断されると、その尊厳をはく奪される恐れが描かれているし、ピョン吉は、カエルの寿命よりもすでに長く生きているために、いつか死んでしまうのではないかという恐れが描かれています。

テッドとジョン、ピョン吉とヒロシの間には、長年一緒に生きてきたのに、かけがえのない存在を失うかもしれないという恐怖があるからこそ、親友以上のより強い感情、それも、どこかホモソーシャル的な(ミソジニーやホモフォビアがあるかないかはおいておくとして)関係があることも感じられます。

○京子ちゃんの「人として仲間に入れてよ」

そして、もう一つ共通するのが、ホモソーシャルに関わってくる女性の存在です。『テッド1』では、ジョンには、広告代理店に勤務する彼女のローリーという存在がありました。ところが、『テッド2』では早々に別れていることが示され、テッドとジョンの前には、見習い弁護士のサマンサという女性が現れます。一方、ヒロシの場合は、幼なじみで離婚したばかりの京子ちゃんが町に戻ってきます。

ヒロシは、京子ちゃんが離婚して町に帰ってきた途端、京子ちゃんにプロポーズをします。でも、小学生の時と何ら変わらないヒロシに京子ちゃんは「バカ」と一蹴。その後、同じくヒロシや京子ちゃんと同級生で区議会議員選挙に立候補しているゴリライモにも、「当選したら結婚してほしい」とプロポーズされます。そんなふたりに対して京子ちゃんの言う「そうじゃなくてさ、人として仲間に入れてよ」というセリフは、心に刺さった人も多く話題になりました。

京子ちゃんが、涙ぐみながら「人として仲間に入れてよ」と願うのは、ヒロシにもゴリライモにも、自分を選挙と言う勝負事の結果によってもたらされる商品のように(トロフィーワイフのように)扱わないでよという意味にとれました。

○テッドやジョンから「仲間」として受け入れられたサマンサ

さて、『テッド』の場合はどうでしょう。『テッド1』では、代理店勤務のローリーは、テッドとジョンの強すぎるホモソーシャルな関係性に対して辟易していました。だから、その関係をあきれ気味に揶揄してもいましたし(その揶揄がテッドとジョンにホモフォビアの感覚を呼び起こしたりもします)、男と男の友情と、男と女の恋愛は別であるべきと考えているように見えました。ローリーは、「私と仕事どっちが大事なの?」ならぬ、「私(との恋愛)と、テッド(との友情)どっちが大事なの?」と二者択一を迫るタイプの女性でした。

だからこそ、『テッド2』では、早々にローリーとジョンは別れていることが描かれます。ところが、この映画が面白いのは(あれだけ差別発言があったり、ミソジニーが強いにも関わらず)、『テッド2』で登場した若くて美しいサマンサを、なぜだかテッドもジョンも「女」として見たり「性愛」の対象として意識していないところなのです。

サマンサは、テッドやジョンと最初からかなり自然に仲間として存在していて(女性がホモソーシャルに認められるのにマリフアナという不良な趣味が一致したというのは、ちょっとわかりやすすぎますが)、三人でテッドの裁判のために図書館で調べ物をしたり、旅に出たりもする。

もちろん、そこは映画なので、恋愛感情は生まれないこともないのですが、サマンサは、ローリーのように、ジョンに「恋愛と友情、どっちが大事なの!」と詰め寄るようなことは、この先もないでしょう。なぜなら、ローリーとジョン、そしてテッドは、まず友情があり、「仲間」であったからだと思います。

○ホモソーシャルに関わってくる女性の変化

京子ちゃんが「人として扱ってよ」というのも、この話につながっているのではないかと思えます。京子ちゃんは、「みんなと同じで、友情でまずつながらせてよ」という気持ちを、あの言葉に込めていたのではないかと思うのです。

でも、ヒロシだってわかっていたのです。京子ちゃんに聞かせようと彼女のアパートの前で、ピョン吉と漫才をするヒロシの、「当たり前じゃないですかそんなこと、だって幼なじみですよ、ガキの頃からずっとずっと見てきたんだ。昨日今日ちょっとかわいいから惚れたのとはわけが違うんですよ」「決まってんじゃないですか。人として仲間なのなんて当たり前じゃないですか。何があったってね、仲間は仲間ですよ、死ぬまでね。いや、死んだって仲間だよ、そうでしょピョン吉くん」という言葉は、京子だけでなく、死期の近づいているピョン吉に言っているようでもありました。

実は、死ぬかもしれない(テッドの場合はさらわれていなくなるかもしれない)男の友を男がどうするかというのは、ホモソーシャルを描いた作品(例えばやくざ映画など)の定番でもあります。

そして、ホモソーシャルを前にすると、女性は仲間ではなく、性愛の対象でしかないというのも定番だったのです。『テッド1』はまさにその構図で終わっていたのですが、『テッド2』と『ど根性ガエル』は、そこから一歩進んで、男性と女性が性愛の関係ではなく「仲間」になるにはどうするかということを描いているということで、共通していると思うのです。

<著者プロフィール>
西森路代
ライター。地方のOLを経て上京。派遣社員、編集プロダクション勤務を経てフリーに。香港、台湾、韓国、日本などアジアのエンターテイメントと、女性の生き方について執筆中。現在、TBS RADIO「文化系トーラジオLIFE」にも出演中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK出版)などがある。

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(西森路代)