YouTube「ANNnewsCH」より

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 安保法制は強行採決されるのか。緊迫の夜が続いている。16日横浜で行われた公聴会で公述人のひとり、水上貴央弁護士は安保法案には憲法9条に反する重大な欠陥があると指摘。こんな状態の法案を通してしまうことは「単なる多数決主義であって、民主主義ではない」と語った。
 
 この水上氏の「多数決主義は民主主義ではない」という言葉に、ネット上では批判の声が飛び交っている。「多数決は民主主義の基本じゃないの?」「多数決じゃなかったらどうやって決めるの?」「頭大丈夫?」「馬鹿じゃねえの!」......。

 多数決で決まったことにしたがうのが民主主義。実際、そう思い込んでいる人は多い。

 安倍首相も今国会中何度も「決めるときは、決める。これが民主主義のルール」「私たちは民意で選ばれた」と、強行採決ありきの発言を繰り返してきた。

 いま強行採決をなんとか止めようと徹底抗戦するデモや野党議員を、多数決という民主主義のルールを聞き入れない駄々っこかワガママかのように受け止めている人も少なくないかもしれない。

 しかし、多数決は本当に民主主義の原則にかなっているのだろうか。本サイトでは以前、民主主義において多数決は必ずしも最良の方法ではないどころか、欠陥だらけの方法であることを指摘した。

 安倍政権が、国民を置き去りにしたまま数の論理で戦争法案を押し通そうとしているいま、再度掲載するのでご一読いただきたい。
(編集部)

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 戦後日本の国家のありようを180度転換する集団的自衛権の容認を閣議で決定し、さらに安全保障関連法案(戦争法案)を数に任せてゴリ押し可決しようとしている安倍晋三。そして、大阪都構想という何の具体性もないデタラメな計画を住民投票にかけて、大阪市民から白紙委任を引き出そうとしている橋下徹──。二人に共通しているのは「選挙に勝ち、多数決で『民意』を得た者がすべてを白紙委任され、独裁的に物事を進められる」というきわめて単純かつ一面的な、民主主義理解だ。

 実際、国民の側もそう考えている人が多いかもしれない。個人としては反対でも、多数決で決まったら従うのが民主主義のルールだ、と。

 たしかに、投票のない民主主義はない以上、民主主義を実質化するためには、何かのルールが必要だ。しかし、多数決はけっして最良の方法ではない。それどころか民主主義という観点から見れば欠陥だらけの方法だと教えてくれるのが、『多数決を疑う』(坂井豊貴/岩波新書)だ。

 では、具体的に多数決のどこが問題なのか。

 我が国の選挙制度は、国政選挙でも地方選挙でも、それぞれ選挙制度などに違いはあれど、一人一票による多数決方式が採用されている。この方式のもとでは有権者は「一番に支持する候補者」を選ぶことしかできず、二番目や三番目への支持表明はできない。仮に全有権者から二番目に支持を受けている候補者がいたとしても投票されることはなく、したがって彼・彼女が当選することも絶対にない。

 また、多数決は「票の割れ」に弱い。たとえば2000年のアメリカ大統領選では、当初ゴア優勢だったにも関わらず、途中から似たような政策を掲げる泡沫候補ネーダーが立候補したために、2人のあいだで票を食い合い、結果的に漁夫の利を得たブッシュが当選してしまった(その結果があのアフガン戦争、イラク侵攻であり、ひいては現在の「イスラム国」の隆盛につながっているのだから、多数決のもたらした影響は大きい)。

 加えて、多数決は少数の意見を切り捨ててしまうという欠点があるのは、中学校の公民の授業で習ったとおりだ。

 このように多数決は、適切に人々の意見を集約するルールとしては穴だらけだ。しかも、なぜそんな欠陥品が長らく採用されてきたかといえば、たんなる文化的な慣習からでしかないのだという。

〈もし「一人一票でルールに従い決めたから民主的だ」とでもいうのなら、形式の抜け殻だけが残り、民主的という言葉の中身は消え失せてしまうだろう。投票には儀式性が伴えども、それは単なる儀式ではない。聞きたいのは信託ではなく人々の声なのだ。〉

 だからこそ、多数決に代わる「性能のよい集約ルール」が必要だ。本書の副題は「社会選択理論とは何か」であるが、社会選択理論こそ、そうした可能性を探る学問分野である。

 本書ではいくつもの集約ルールを平易に紹介し、比較検討している。そのなかでとくに有効なものとして挙げられているのが、スロヴェニアの国政選挙やFIFAワールドカップの予選でも採用されている、ボルダルールという方式だ。

 これは、たとえば選択肢が3つあるとしたら、投票者は支持する順番に1位は3点、2位は2点、3位は1点とポイントをつけ、その総和が多い選択肢から勝利するというやり方である。

 ボルダルールでは、各選択肢を1対1で対決させたときに他のあらゆる選択肢に負ける選択肢、つまり先述の大統領選の例でいえば、ブッシュのような実質的には弱いのに、全体の多数決では勝者に見えてしまう候補者を排除できるメリットがある。

 細かく見ればボルダルールにも難点はあるのだという。だが、実は完全に合理的で民主的な集約ルールなどありえないのだ! そのことは、ノーベル賞経済学者ケネス・アローを筆頭とする論者たちが「不可能性定理」で数学的に証明しているのである。

 とはいえ、ボルダルールが多数決より圧倒的にマシであることには変わりない。ボルダルールでなくともいい。いますぐにでも公職選挙法を改正し、少しでも民意が反映される多数決以外の方法を導入すべきだ。

 ところで、本書は公職選挙法にからんで、きわめて重要な指摘をしている。

〈本来なら憲法は法律を上位から縛るものだが、公職選挙法が小選挙区制を通じて、下から第96条の実質を変えてしまっている〉

 現行の選挙制度では、小選挙区制(ないしは小選挙区寄りの区分け)の割合が大きいせいで、得票率が低くとも簡単に圧勝できてしまう。

 それをふまえると、憲法改正のための条件として衆議院と参議院のそれぞれで3分の2以上の賛成が必要だとしている憲法96条の縛りは「見かけ以上に弱い」。実際、自民党は直近の国政選挙で衆議院、参議院ともに半数以下の支持だったのも関わらず、それぞれ約76%、約54%の議席を獲得してしまった。

 憲法改正に必要なハードルは実質的には3分の2ではなく、せいぜいが半数以下で十分なのだ。このように法の抜け穴を利用して自分に都合のいいようにコトをすすめるのを脱法行為、もしくは詐欺というのではないか?

 人民主権を唱え、民主主義思想の礎を築いたルソーは、自由や権利が侵害される場合には多数決を適用してはならないとした。そして、それを実現する仕組みとして、たとえば多数派が少数派を抑圧する法律をつくらないよう、上位の憲法が禁止する立憲主義が生まれた。だから憲法が単なる多数決で簡単に改正されるなどあってはならないのだ。

 ちなみに民主制を徹底的に考えぬいたルソーにとって主権とは立法権に他ならず、そうした立法権を一部の代議士だけが独占する代表制民主制は原理的に否定されている。本サイトの過去記事でも紹介されているが、ルソーによれば代表制民主制は奴隷制と同じである。

 本書の著者もそんなルソーに依拠し、たんなる形式主義が民主制にすり替えられた現状に憤りをぶつけている。

〈現実には主権者は、立法にも執行にもほとんどまったく関われない。しかし先ほどの形式の確保(引用者註:主権者である国民が国会議員を選出し、国会議員が法を定め、内閣の一員がそれを行政処分によって執行すること)を民主制の成立と錯視すると、現行制度は「民主的」と目に映ることになる。人々が声をあげたとしても、すでに制度を民主的だと思い込んでいる者は、そのような声をノイズとしてしか受け付けないだろう。〉

 結局のところ、たんなる多数決の結果を笠に着た「民主制」なぞペテンでしかない。著者はさらにペテンに加担する者がいかにも言いそうなことにたいして痛快な批判を浴びせる。

〈「政治に文句があるなら自分が選挙して立候補して勝て」といった物の言い方がある。何を根拠としているか不明だが、それを口にする者の頭のなかでは、それが「ゲームのルール」なのだろう。だが、わざわざ政治家にならねば文句を言えないルールのゲームは、あまりにプレイの費用が高いもので、それは事実上「黙っていろ」というようなものだ。人々に沈黙を求める仕組みはまったくもって民主的でない。〉

 私たちには"クソゲー"をプレイしない権利がある。一票の格差とか投票率についてグチグチ言うのも結構。だが、真の民主主義は選挙=多数決がひからびたクソだという認識をもつところからしか始まらない。

(松本 滋)