『育将・今西和男』 連載第7回
◆門徒たちが語る師の教え 
FC町田ゼルビア 李 漢宰(1)

 李漢宰(リ・ハンジェ)が倉敷朝鮮初級学校4年のときにJリーグが開幕すると、創成期の爆発的なブームが日本列島を包んだ。民族学校における校技ともいえるサッカーに熱中していたハンジェは当時、在日で初めてのJリーガーになった申在範(シン・チェボン)に憧れて、申の所属するジェフ市原を応援していた。それでいて自身の将来について描いた夢は、プロ選手になることではなかった。

 幼少期から人一倍民族心の強かったハンジェのそれは、在日朝鮮蹴球団に入り、ゆくゆくは北朝鮮代表に選出されて、日本代表と試合をすることであった。自分にとってのヒーローはジーコ、リトバルスキーといった世界的なスーパースターではなく、あくまでも在日のサッカー選手たちだった。その気持ちは揺らぐことなく持ち続けていたが、広島朝鮮高級学校の2年のときに入団を志していた蹴球団が諸事情によって解散してしまう。

 目標を失ってしまったハンジェは進路を考え直した。そのときに改めて思い浮かんだ希望が、Jリーガーだった。しかし、広島朝高は予選の下馬評は高かったものの、インターハイや高校選手権に出場できたわけではなく、ハンジェ自身も知名度は低かった。朝鮮高級学校から直接Jリーグのチームに入った選手は(現在でも)誰もおらず、自信はあったとしても、自分ひとりの力ではアプローチできるものではなかった。

 ところが、監督に相談すると、サンフレッチェ広島の練習参加の話が即座に舞い込んできた。「チームに入ってのプレーを見てみよう」とすぐに腰を上げてくれたのが、強化部長の今西だった。

 今西には、その半生において在日朝鮮人、さらには在日のサッカー選手に対する特別の思いがあった。広島に原爆が投下され終戦を迎えてから2年後、1947年に市内の矢賀小学校に入学すると、近所の朝鮮人集落の人々が、快活だった今西少年をとても可愛がってくれたのである。ミシンを踏んで生計を支えてくれた母親がフェアな性格で、日本人も朝鮮人も分け隔てなく接して、破れた生地などを縫ってあげていた。

 近郊の二葉山に遠足に行くときは、金山さんという朝鮮人の上級生が「和男、お前はまだ小さいけえ。山登りはしんどいじゃろ。俺がおぶっちゃるけえ、背中に乗れ」と言ってくれて、わざわざ背負って登ってくれた。優しい金山さんが大好きだった。以来、まったく何の偏見も差別感情もなく、朝鮮人と付き合ってきた。

 1959年に東京教育大学(現・筑波大学)に入学すると、ここでまた大きな出会いがあった。今西は合格通知をもらうと同時に、サッカー部のマネージャーから「やる気があるのなら、合宿をやるから3月21日までに甲府に来い」という連絡を受けた。当時の教育大は新学期が始まる前に山梨で強化合宿を張っており、新入生にも声をかけていたのである。受験から解放された今西はボールが蹴りたくてたまらず、すぐに向かった。

 サッカーを始めたのが、高校2年生からということで、最も技術が伸びる小学生時代にボールを触っておらず、自分でもテクニックがないことはわかっていた。4歳のときに被曝した左足にはケロイドが残り、動きも不自由であった。しかし、そんなハンディを吹き飛ばすように、身体を張ったディフェンスと何者も恐れない勇猛果敢なスライディングは他を圧していた。練習中にアキレス腱や膝を何度も削られようが、立ち向かっていった。そんな新入生に声をかけた4年の先輩がいた。

「おい、オマエ、ちょっとポールを持って来い」。それが朝鮮人のリ・ドンギュウだった。「オマエはすごい勇気がある。でも、勇気だけではサッカーはできない。トラップとボールのコントロールを身に付けろ」

 それから、毎日マン・ツー・マンで今西に指導を施してくれたのである。ドンギュウはこれより5年前、東京朝鮮高校が高校選手権で全国3位になったときのキャプテンであった。そのテクニックは関東大学1部リーグの中でも出色で1年の時からレギュラーを獲得していた。18歳の今西は、そんな大先輩に入学前から個人指導を受けて感動していた。ドンギュウはその後、過労から結核に冒されて、西新井病院に入院するも、チームが2部に降格しかけるとベッドを抜け出して参戦。最後の法政大学との試合でゴールを決めて、教育大の一部残留の救世主となった。

「この先輩に学べば、自分がこれからもっと成長できるぞ、という実感が湧いた。ドンギュウさんが卒業されてからも教えを請いたいと思っていたもんじゃ」」

 しかし、別れは早くやって来た。1960年10月、前年12月より始まった在日朝鮮人の北朝鮮への帰国運動で、ドンギュウはピョンヤンへ渡る決意をする。在日のほとんどが38度線より南の出身であったが、北朝鮮政府、日本政府、赤十字が推し進めたこの運動は約9万4千人を縁者のいない北朝鮮に"帰国"させている。

 なぜ、ドンギュウが帰国するのか。チームメイトたちは敢えて多くを聞かなかったが、この恩人のために精一杯の誠意を込めた送別会を開いて見送った。今西はたった1年しか一緒にプレーが出来なかったが、ドンギュウのことは大きな影響を与えてくれた人物として、尊敬の念をずっと持ち続けて来た。その気持ちは在日のサッカー選手を応援していこうという思いに昇華していった。

 練習に来たハンジェに対しても、親身になってアドバイスを送った。「プレーは、ええときはえんじゃがな、悪いときの波がすご過ぎるんじゃ。そこを直せ」。グサリと刺さったが、自覚すべきこととして身に染みた。

 家庭環境も学校もずっと在日のコミュニティの中で生活してきたハンジェにとっては、サンフレッチェの練習参加は、初めての日本人社会への越境と言っても過言ではなかった。当時をこう振り返る。

「恥ずかしい話、どこかで日本人は敵だっていう気持ちの中で、それまで僕は生きてきたので、初めて練習で上村(健一)さんに『俺も在日の人にお世話になってるんだ。自由にやっていいから、お前の力を全部出せ』と言われて、すごくありがたかったです。

 入団するきっかけになったのも上村さんです。紅白戦でゴール前のFKになったときに『自信があるんだろう? 蹴れ』と言ってもらえたんです。決める自信はあったので、蹴りたいとは思っていましたが、それを言い出せなかった。今の本田圭佑なら言ったかもしれませんが(笑)。僕はそこまで図太くなかった。そうしたら。上村さんが『蹴れ。遠慮するな』『はい』。そして、ゴールを決めて入団まで至ったんです。

 ただ、その過程にはサンフレッチェ広島というチームが今西さんの作ったチームで、リ・ドンギュウさんをはじめとする在日の人たちとの関わりが深いチームだったということで、僕をすんなり受け入れてくれたんです。

 それと本当に衝撃的な言葉だったのが、2回目くらいの練習のときに、それも上村さんに言われたんですけど、『お前は日本人に差別されていると思っているかもしれないけど、逆なんだぞ。お前らが壁を作って差別している部分もあるんだぞ』と。その言葉を聞いたとき、衝撃的過ぎて。そんなこと今まで思ったことなかったので。ただ、ドンピシャで間違ってない言葉ですよね。自分たちが知らない間に逆に差別しているところもあるって。そこで僕の世界観が一気に広がった。そういう日本人と朝鮮人のフラットな関係も今西さんとドンギュウさんの出会いからだと思います。今西さんは『俺が今あるのはドンギュウさんがいたからだ』と僕によく話してくれました」

 後にハンジェが北朝鮮代表としてピョンヤンに向かうと、国内で最も権威のあるサッカー解説者として活動するドンギュウと出会う。

「君がハンジェか? 今西から話は聞いている。あいつは本当に下手クソだったが、熱い気持ちを持っていた。だから目をかけたんだ。困ったことがあれば、何でも言ってくれ」と優しく話しかけられた。

【profile】
今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)−東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

李 漢宰(り・はんじぇ)
1982年6月27日、岡山県生まれ。広島朝鮮高級学校から、2001年サンフレッチェ広島に入団。翌年、プロデビューを果たし、北朝鮮U-23代表にも招集され、釜山アジア大会に出場した。2004年には北朝鮮A代表にも選ばれ、翌年のW杯アジア最終予選では日本代表とも戦った。2010年J2コンサドーレ札幌、2011年J2FC岐阜、2014年J3FC町田ゼルビアに移籍。キャプテンとして、J2昇格を目指すチームを牽引している

木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko