根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
【連載第49回】

証言者・下柳剛(1)

 プロ野球の世界では、監督の交替をきっかけにチャンスをつかむ選手がいる。もちろん逆のケースもあるし、つかんだチャンスを生かし切れない選手もいる。その点、プロ22年間通算で129勝を挙げた下柳剛は、見事に生かし切った選手のひとりである。
 下柳の場合、きっかけとなった監督が根本陸夫だった。ダイエー(現・ソフトバンク)時代の1992年、二軍暮らしが続いたプロ2年目のシーズンも終わる頃。スポーツ新聞の見出しに〈根本、ダイエー監督〉とあるのを見て、一瞬、我が目を疑った。今も根本を「オヤジ」と呼ぶ下柳が、当時を振り返る。

■前代未聞、キャンプ中の2連休

「オヤジのことは、社会人の時から知ってたんです。当時、オヤジは西武のスカウト部長で、何回かグラウンドに来られていましたから。それで3年目の時、他の球団から『ドラフトにかける』と言われていたけど、 自分はその年、プロに行く気はなかった。そしたらオヤジに『じゃあ、シモ、お前は来年、西武に来い』と言われて、『そうですねえ』って答えてました。それがいざ、その年のドラフトにかかってダイエーに入団......。約束を破って、裏切ってしまった人が監督で来るなんて『やばい〜』『オレは終わりかな〜』って思っていました」

 長崎・瓊浦(けいほ)高から八幡大(現・九州国際大)に進んだ下柳だったが、わずか1年で中退。その後、瓊浦高野球部監督のツテで新日鐵君津(現・新日鐵住金かずさマジック)のテストを受けて合格。88年からチームに加わり、「3年やってプロに行けなかったら野球をあきらめるつもり」で、死にものぐるいで練習した。投げ込み、走り込みを徹底的にやりつつ、当時の野球界ではまだ浸透していなかったウエイトトレーニング、インナーマッスルの強化も行なっていた。先見性のあるトレーナーのおかげだった。

 そうして迎えた3年目の90年、チームは都市対抗出場を果たすも初戦敗退。創部以来初となる都市対抗での勝利はならず、下柳は「全国で1勝して、拾ってもらった会社に恩返ししてからプロへ行きたい」と考えるようになっていた。

 ゆえに「プロへは行きません」と宣言していたなか、ダイエーがドラフト4位で指名。それでも「今年は行きません」と突っ張っていたが、野球部全体から背中を押される形で翻意し、プロ入りを決断したのだった。ただ、当時、森博幸(内野手・85年ドラフト4位)をはじめ、新日鐵君津からの西武入りはひとつの路線になっていたため、下柳としてはなおさら"根本監督"に戦々恐々としていた。

「最初は西武からダイエー、しかも編成部長にまでなった人がまた監督なんて、ありえないって思っていたんです。まだ正式発表じゃなかったし、どうせ嘘やろと。それが嘘やないとわかってから、オレ、おどおどしっぱなしでした。で、いちばん最初に顔を合わせたのは2月のキャンプ前、神社参拝の時だったけど、『オレ、嫌われてないか?』『確実に怒られる......』と思っていた。そしたら『おう、シモ、またよろしくな』って声をかけてもらって。それでちょっとホッとしました」

 再会を果たした下柳は、根本の器の大きさを感じた。キャンプに入ると、今度は監督としての意外な方針に驚かされた。

 キャンプ休日の前日のこと。朝から大雨が降ってグラウンドが使えなくなった。当時は室内練習場が整備されていなかったから、練習する場所がない。根本は選手たちを集合させ、「よし、みんな、今日は休みにしよう」と言った。

「それでオヤジが『明日はどうする?』って聞いてきたわけです。予定では『明日』は休日になっているけど、ふつうは、休みを振り替えて『明日は練習』って考えますよね。練習が雨で中止になると喜ぶ選手だって、自然と練習する気になると思う。でも、オヤジはそうじゃなかった。『みんな、明日は予定を入れているだろうから、休み』って(笑)。後にも先にも、キャンプで2連休なんてその時だけですよ」

■試合中にもかかわらず、ずっとブルペンを見ていた

 思い切ったことを平然とやってしまう監督。そんなふうに受け止めた下柳に対し、ある日、根本が面と向かって言った。

「おい、シモ、なにもせずにこのまま成績を残せんで長崎に帰るのと、ボロボロになるまでやるだけやって、ケガして長崎に帰るのと、どっちがいい?」
「やるだけやって、ケガして帰るほうがまだマシです」
「やるだけやってみい。それでダメなら、地元に帰っても格好つくだろ? 『ケガしたから』って言えるから。このままいったら使えんぞ。ものにならんぞ」
「やります」
「それなら、毎日、バッティングピッチャーをせい」

 速球派の大型左腕として注目された下柳だが、1年目の91年は一軍で1試合の登板に終わり、92年は二軍で投げ続けた。制球難が原因で「鳴かず飛ばず」だった。そこで3年目の93年、根本が課した「バッティングピッチャー」とは、いかなるものだったのか。

「本当に毎日、前の日にどれだけゲームで投げても、試合前の練習でバッティングピッチャーをやるんです。時間にして20分から30分。それからベンチに入って、試合で投げて、終わった後にも『ブルペンに行って投げろ!』ってオヤジに言われる。試合中のオヤジは采配しているわけだから......、と思ってブルペンで座って休んでると、インターフォンが鳴って『投げんか〜』って言ってくる(笑)。要は、ベンチのモニター画面でブルペンばっかり見てるんですよ。『監督なんだから試合見とけよ!』って思いましたね」

 根本とすれば、「毎日、バッティングピッチャーをするなら一軍で使ってやる」という方針だったらしい。実際、その年の下柳はオープン戦の成績が今ひとつだったものの、開幕一軍入りを果たす。そうして、6月には先発陣の一角を担うまでに成長するのだが、先発する日でもバッティングピッチャーをやり、それからまたブルペンに入って、マウンドに上がった。多い時は、一日に300球は投げたという。

 しかし当時、ダイエーの投手コーチは権藤博である。自らの現役時代に登板過多で肩を壊し、短命に終わったため、指導者になってからは「投手の肩は消耗品」がモットーだった。91年のコーチ就任時から下柳をみていた権藤も、根本に押し切られたのだろうか。

「権藤さんは、最初は反対したみたいです。でもオヤジが、『アイツは壊れん』と。『なんでそんなことがわかるんだ?』って話ですが、やっぱり、社会人時代からずっと自分の練習や投げ込みを見ているので、わかっていたんだと思います。だから権藤さんも、『おう、お前は親に感謝せえよ』って言うてましたね」

 そもそも、権藤が根本に対し、「こういうヤツを育てんで、どうするんですか?」と進言したことが抜擢の始まりだった。「じゃあ使おう」と言って、使うとなったら徹底して使うのが監督・根本である。それでも壊れなかったのは、社会人時代の練習量と、それに耐え得る体に産んでくれた両親のおかげだった。一方で、「バッティングピッチャー」の効果のほどはどうだったのか。

「まず、毎日、毎日、球数を投げていくうちに、余計なものがどんどん削れていって、自分の体に合ったフォームになっていくんです。だから、300球投げても耐えられたんだと思います。あとはバッターに対して投げることによって、ちょっとした変化でもグッと打ち損じたりするのがわかる。バッターの反応を見ると、ああ、こんな時に打ち取れるんだ、というふうにすごく勉強になったんです。それから先は、ベテランになっても、調子悪くなったらずっとバッティングピッチャーをしていましたよ」

 前年まで実績がなにもなかった下柳は、その年、一気に50試合に登板。98イニングを投げて4勝8敗5セーブ、防御率4.13という数字を残した。まさにつかんだチャンスを生かした形だが、決して、根本に対して従順だったわけではない。「このクソオヤジ!」と思ったことは一度や二度ではなかった。

つづく

(=敬称略)

【人物紹介】
根本陸夫...1926年11月20日、茨城県生まれ。52年に近鉄に入団し、57年に現役を引退。引退後は同球団のスカウト、コーチとして活躍し、68年には広島の監督を務める。監督就任1年目に球団初のAクラス入りを果たすが、72年に成績不振により退団。その後、クラウンライター(のちの西武)、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督、そして事実上のGMとしてチームを強化。ドラフトやトレードで辣腕をふるい、「球界の寝業師」の異名をとった。1999年4月30日、心筋梗塞により72歳で死去した。

下柳剛...1968年5月16日、長崎県生まれ。瓊浦高から八幡大(中退)、新日鐵君津を経て、90年ドラフト4位でダイエー(現・ソフトバンク)に入団。94年には62試合に登板し、自身初の2ケタとなる11勝をマーク。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。97年から3年連続して60試合以上の登板を果たすなど、中継ぎ投手として活躍。02年オフにトレードで阪神に移籍すると、03年に10勝、05年には15勝をマークし、史上最年長の最多勝投手となるなど、2度のリーグ優勝に貢献。11年オフの自由契約を経て、12年は楽天でプレーするも同年オフに戦力外となり、13年3月に現役引退を表明した。プロ通算成績は627試合に登板し、129勝106敗22セーブ。

森博幸...1963年5月29日、福岡県生まれ。小倉工業高から新日鐵君津を進み、85年のドラフトで西武から4位指名を受けるも、入団を保留しチームに残留。だが、西武の管理部長だった根本陸夫への恩もあり、87年に入団を果たす。左打ちの外野手として活躍し、91年には自己最多の86試合に出場。規定打席には到達しなかったが、打率.303、7本塁打の記録を残す。97年限りで現役を引退し、05年から2年間は四国独立リーグの香川オリーブガイナーズのコーチを務め、07年から10年まで西武のコーチとして若手の指導にあたっていた。プロ通算成績は155安打、15本塁打、80打点。

権藤博...1938年12月2日、佐賀県生まれ。鳥栖高からブリヂストンタイヤに入社し、61年、中日に入団。1年目から2年連続で最多勝を獲得。連日の登板から「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれた。しかし、過酷な登板から肩を痛め、31歳の若さで現役を引退。73年より中日で投手コーチを務め、リーグ優勝に貢献。その後、近鉄、ダイエー、横浜でコーチを務め、98年に横浜の監督に就任。1年目に38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。12年には再び中日のコーチに就任するなど、多くの投手を育ててきた。プロ通算成績は210試合に登板し、82勝60敗。

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki