経営に対する考え方もダンディだった小林陽太郎氏(2012年撮影)

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 富士ゼロックスで社長、会長を務めたほか、経済同友会の代表幹事など財界活動にも積極的に取り組んだ小林陽太郎氏が9月5日に亡くなった(享年82)。

 財界きっての国際派として次代を担うリーダーの育成に熱心だった小林氏。独自の経営哲学もさることながら、ダンディな立ち振る舞いから、“小林ファン”は企業経営者にとどまらなかった。経済誌『月刊BOSS』編集委員の関慎夫氏が、小林氏の意外な交友関係を明かす。

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 3年ほど前、小林陽太郎さんに俳優の市村正親さんとの対談をお願いしたことがある。2人は、市村さんが劇団四季にいた頃からの旧知の仲で、小林さんはよく市村さんの芝居を観に行っていた。

 この対談の中で、市村さんが小林さんについてこう語っている。

「(若い頃)ご自宅に呼んでもらいましたが、小林さんはハリウッド俳優のようなかっこよさで、むしろ僕のほうが憧れました」

 若い頃からミュージカルスターとして活躍し、24歳年下の人気女優・篠原涼子を妻に迎えるなど、多くの男の羨望を集める市村さんをして、「かっこよくて憧れた」と言わしめる。それほど小林さんは、財界きってのダンディな経営者だった。

 長身でハンサム、運動神経もよく、ゴルフはシングルの腕前。父親は富士フイルム元社長・小林節太郎氏という血筋。

 幼稚舎から慶応で、ペンシルバニア大学ウォートン・スクールでMBAを取得した。富士フイルムに入るが、1962年に同社とゼロックスが合弁で富士ゼロックスを設立すると翌年そこに転じ、1978年に社長に就任した。この時まだ45歳。いくら外資との合弁企業とはいえ、当時の常識からすれば非常に若かった。

 このように、生まれも経歴も、そしてルックスも、ケチのつけようがない経営者。それだけでなく、経営に対する考え方もダンディだった。

 1970年に大ヒットした富士ゼロックスのCM「モーレツからビューティフルへ」。大阪万博が開かれたこの年、日本の高度成長はピークを迎えていた。その時期に、方向転換を訴えたこのCMのインパクトはきわめて強かった。このCM制作に、富士ゼロックス側の担当が、当時まだ役員の小林さんだった。

「モーレツからビューティフルへ」は、富士ゼロックスのそして小林さんの経営哲学そのものでもあった。

 会社設立翌年には四大卒女性の社員の採用に踏み切り、男女雇用均等法施行1年前(1985年)には、男女給与格差は解消した。

 このほか、育児給食制度や育児退職者再雇用制度など、女性に優しい職場づくりにおいて、富士ゼロックスは先駆的役割を果たした。こうした点が評価されて、富士ゼロックスは常に「働き方ランキング」で上位を占め続けた。この評価を、小林さんは業績以上に喜んでいた。

 ダンディでビューティフル、耳障りのいい言葉だ。でもそれを実現するためには、強い意志と努力が必要だ。小林さんのダンディさも単に生まれ育ちによって与えられたものではなく、自らを高める努力を怠らなかった。それが小林さんのリーダーシップにつながった。

 そして年齢を重ねてからは、いかにしてリーダー育成に注力した。それが結実したのが日本アスペン研究所だ。

 アスペン研究所は、アメリカにある組織で、合宿形式でダンテやゲーテなどの古典を学び、議論を通じてリーダーシップを養うことを目的としている。小林さんは40代でこのセミナーに参加し、「目から鱗が落ちる」体験をした。

 そこで気づいたのが「日本の教育はリーダーシップの欠如を招いた。リーダーの魅力を構成する重要な要素が教養であり、それを学ぶ場が必要だ」ということだった。

 小林さんは日本アスペン研究所づくりに奔走、1998年に立ち上げた。同研究所のセミナーには企業の幹部候補生が参加し、数多くの卒業生が旅立ち、企業経営の第一線で活躍している。

 1999年には日本同友会代表幹事に就任する。当時の出資比率は富士フイルム50%、ゼロックス50%だった(現在は富士フイルム75%)。外資企業経営者が主要経済団体のひとつである同友会の代表幹事に就くことには異論が出そうなものだが、反対はほとんど出なかった。それだけ小林さんの生き方が、多くの経営者に評価されていたということだろう。

 そして小林さんが代表幹事を務めたことで、外資アレルギーは薄まり、小林さんの後任に、外資100%である日本IBMの北城恪太郎会長の代表幹事に就任することにつながった。

 同友会を辞めてからは、国際大学理事長を務めたほか、数多くの公職、や社外取締役に就いている。ソニーでは取締役会議長を務め、ハワード・ストリンガーCEOの退任を決める取締役会を仕切った。

 実は冒頭に紹介した対談は、その取締役会の前日に行われた。

 小林さんは毎日、コメントを求めてメディアに追いかけられていた。そんな時期だったにもかかわらず、「(この日程は)前から決まっていたことだから気にしなくていいよ」と言ってこちらを気遣い、終始にこやかに市村さんと語り合っていた。

 こんな状況においても、小林さんのダンディさは貫かれていた。

●撮影/横溝敦