筒井康隆最後の長篇か? 噂の「モナドの領域」最速レビュー

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筒井康隆「モナドの領域」を読んだ。
掲載誌《新潮》2015年10月号の表紙には、
〈(330枚一挙掲載)〉
〈最高傑作にして、おそらくは最後の長篇〉
と書いてある。


出だしはミステリ小説


「モナドの領域」は、警察の捜査シーンから始まる。
土手で女の片腕が発見された。第一発見者は近所の美大の演劇部で舞台美術を担当している学生。上代真一警部(50歳。美男子)と鑑識の堤(60代)が他の捜査員と現場を検証していると、近くの公園から片足が発見される。

場面は飛んで商店街のベイカリーカフェ「アート・ベーカリー」。休暇中のバイトに替わって臨時のヘルプで入った美大生・栗本健人は、肘から指先までの形をしたリアルな腕の形のバゲット生地のパンをなぜか焼いてしまうのだった。

アート・ベーカリーの常連で同じ大学の西洋美術史教授の結野(ゆいの)楯夫(67歳)が、それを気に入って買い上げる。腕パンは評判になるが、そのパンと河川敷で発見された女の腕との関係を示唆する匿名メールが警察に届く。

結野教授の「奇蹟」?


ある日アート・ベーカリーを訪れた結野教授のようすがおかしい。宙を見上げて、黒目がふらふらと泳いでいる。捜査でアート・ベーカリーを訪れた上代警部に、店主は告げる──姿を消した栗本健人も、腕パンを作り始めた日から同じような眼をしていたと。

このあと結野教授は、公園で出会う人々の前で、その「全知」を証明していくことになる。
初対面の人たちにいきなりフルネームで呼びかけ、その人たちが明らかにしていないさまざまなできごと(家族が63時間前に指輪をなくしたとか、持っているレジ袋のなかの買ってきたばかりのヨーグルトの賞味期限がきょうだとか、3週間と4日前に空き巣に入られたとか)を言い当てる。

そして言うのだ。〈このふらふらしておる眼だがね、これはわしの遍在に驚いてこの結野君のからだが反応しておるだけだ〉。
全知、そして遍在──つまり結野教授は、〈神〉に憑依されてしまったのか?

安易な依存心は「神」にも「世界」にも届かない


教授は言う──
〈神というのはお前さんたちが勝手に作って勝手に想像しているだけだからね。実際にはお前さんたちの想像している神とはだいぶ違うよ〉

教授(の体を動かしているもの)が神であるらしいと知った人々のなかには、勝手な思い入れを彼に投影しようとしてくる者たちもいる。
たとえばひとりの母親は、幼い息子を車椅子に乗せてやってきて、この子の足を治してやってくださいと頼む。
すると教授の口から、このような言葉が出る──

〈不幸な子供というのはだいたい、よくない両親のかわりに社会から罰せられているんだが、その罰を与えているのはわしではなくお前さんたち人間なんだ。〔…〕不幸はそれを生み出した連中や社会だけによるもので、〔…〕そもそも責任なんてものも存在しない。架空のことだ。罪とか罰とかもだ〉

責任や罪・罰という概念の本質は、なにより人間社会が自己都合で要請する約定である。
こういった事実は、神にたいして安易な救いを求める人間の依存心を打ち砕くことだろう。
しかしそのいっぽうで、自分を幸福にするのも不幸にするのも、だれのせいでもなくてすべて自分しだいだ、と考える者にとって、この考えかたはどれほど勇気を与えてくれることか。

GODをめぐる哲学対話


結野教授は、というかGOD(と作中でも呼ばれるようになる)は、世間の注目の的となり、さらに傷害容疑で逮捕されて、法廷で裁かれる。作中で示唆されているように、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の挿話を思わせるが、だいぶ違う。


さらにそのあと、TVで公開討論をすることにもなる。TVをはじめとするメディアの狂奔ができごとを生み出していくという展開は、最初期の短篇「東海道戦争」や長篇『48億の妄想』以来の、筒井作品の見せ場のひとつだ。


こうして小説の後半では、弁護士や検察官、哲学者や文学者、また自称「信心深い」一般人、といった人々が、「全知」でありかつ「遍在」する存在に挑み、後者がこれに鮮やかに答えていく。
こういった論議自体をおもしろく提起していくのもスリリングなことだが、そのおもしろさに脳がほどよく緊張したところで、ギャグもしっかり入る。

〈〈マルコによる福音書には、明かりを燭台の上に置くのではなく、明かりの上に桝を伏せるという一節があります。たとえ桝がその光を覆い隠しても、そこに光があることは確かだということです。これは正しいのでしょうか」
 GODはさすがに面倒そうだ。「密閉すれば酸素がなくなって明かりは消えてしまう。悪いがそれは誤りだ」〉


GODの答えには、「べき」「べからず」という発想がない。あらゆる善悪を超越している。
逆に言うと、彼との対論によって、人間の発想に染みついたさまざまな「べき」「べからず」が浮き上がって可視化されることになる。
「べき」「べからず」を超越した観点から見れば、この世界は美しく、それ自体が驚くべきものだ。

すべてはある。すべては驚くべきものだ。


GODは終盤で、きわめて感動的な台詞を口にする。その台詞のなかで彼は、自分(GOD)が存在している理由を明かす。
それをここで引用することは避ける。その台詞が感動的なのは、小説のそこまでの展開があるからだ。そこだけ抜き書きしてもあなたは感動しない。
それを読んだとき、きっとあなたは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の、つぎの一節を思い出すことだろう──

〈神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである〉(野矢茂樹訳)


それにしてもモナド──ライプニッツが想定した世界を構成している最小の要素、「点」のような「原子」のような、そして神がプログラムしたとおりに動くという、あのモナド。
『モナドロジー』も読みかえそうと思いました。


ところで腕はどうなったのか?
ご安心ください。その謎もGODがちゃんと(ちゃんとか?)解決してくれます。

来月で単行本デビュー50周年


この長篇は読み終わると感動的で、その感動はある種の哲学書を読んだときの感動──世界ってなんてステキなんだ!──に非常に近い。

これが筒井さんの最高傑作であるかどうか、ということについては、僕はあまり興味がない。これもいいけど、あれもいい。「あれか、これか」にはなりにくい。


また〈おそらく最後の長篇〉というのは、あまり信じたくない。小島信夫や野上弥生子みたいに、90歳を越えても長篇小説を書いてほしいと思っているからだ。
「モナドの領域」の感動は、ここでこの不思議な小説家・筒井康隆の原点に立ち返って、読み直してみたい、と思わせるような感動でもあった。
偶然なんだけど、筒井さんの最初の単行本『東海道戦争』が、来月で刊行50周年を迎えるんだよなー。


(千野帽子)