『育将・今西和男』 連載第6回
■門徒たちが語る師の教え 廿日市FC 久保竜彦(2)

 決して振る舞いに問題があって孤立していたわけではない。それどころか、その飛びぬけた能力をサンフレッチェ広島のほとんどの先輩たちは驚愕の面持ちで見つめていた。しかし、久保は"超"の字がつくほどの人見知りゆえに、コミュニケーションが取れず、チーム内で友人が作れずにいた。シャイな性格から福岡筑前の訛りが恥ずかしく「もう絶対にしゃべらんとこと思った」と決意していたことは前編で述べたとおりである。

 そんな久保が密かに憧れている選手がいた。AFCユースの1994年大会で安永聡太郎(当時、清水商業高校)と2トップを組んで大活躍をした1学年上の大木勉(当時、青山学院大学)である。

「テレビで観て驚いたです。FWとしての細かいステップやったり、独特の間合いやったり、ディフェンスが予測する前にアクションを起こして先手先手で仕掛けるタイミングとか、格好ええなあ。あそこに近づきたいなあと思ったし。そうしたら、急にうち(広島)に来るっていうんで『やったあ!キターッ!』って」

 大木の青学大を中退してのサンフレッチェ入団にも、今西の力が介在していた。大木は大学サッカーでのプレーを一度は選択したものの、日本代表ユースでの活躍からプロ志向に切り替わってきたとの情報を得た今西は、いち早く東京に飛んでいた。その高い技術を評価していたので、ぜひ欲しいと考えていたが、もしかしたら関東のチームに行きたがるのではないかという懸念があった。「愛媛の南宇和高から青学に行くくらいなので、中央志向が強いんかと思っとったら、僕は広島に行きたいと言うんで『しめた!』と思うてね」

 当時、絶頂期にあったヴェルディ川崎や横浜マリノスを出し抜くかたちで、大木の入団が決まった。しかし、今西にはもうひとつの心配事があった。

「ボールを止めること、蹴ること、特にシュートの正確性は私が関わってきたサンフレッチェの中でも間違いなくトップクラス。しかし、久保と同様にコミュニケーションが苦手な子やったんです。大木は性格的に、大学という場所の空気に馴染めんかったんじゃろうね。向き合って話しとっても、すぐにうつむいて視線を外してしまうんで、ひと月に一度は必ず会って『大木くん、ちょっと上を向いてごらん。下を向いてたら、俺と話したくないように思われるぜ』って会話を重ねとったんですよ」

 一方、久保は遠くから見ているだけの存在であった大木の入団がうれしくて仕方がなかった。

「1回、練習を見ただけで『何じゃ!この人は!』って思って。自分の間で勝負出来るし、2トップでこれに付いて行ったら、めちゃくちゃ面白くなりそうやなって思ったんで、必死にそばに行って練習しましたね。2人1組の練習も初めてやのにべったり付いて行って『誰や、お前!』って言われるくらい一緒にいました。しかも寮の部屋も隣なんですよ。『うわっ、近い』って引いたけど、好きやったんで、ちょっと部屋に行ってみようと思って。そんで入っていって『ズボン下さい』とか言うて、もらったりしてました。ほんで話すようになってから『1日も(大学の)授業出んかったわ』とか言うてました」

「ミュージシャンズ・ミュージシャン」という言葉がある。素人は気づかなくても、同業の目は確かである。才能は才能を知る。大木のプレーが久保を魅了し、結果的に心を開かせたのである。そこに言葉は必要なかった。久保と大木はいつも一緒にいた。

 今西は選手教育の一環として、講師を招いてのプレゼンテーションやスピーチ、ディスカッションの講座を催していたが、この2人が組むとまったく会話が進まなかった。

「あの2人は今何をやっているのか、わからないもんだから、『皆の前で話し合え』と言っても止まってしまいよるんですよ。ところが、これがプレーになると、まさに阿吽(あうん)の呼吸と言うんかな。トントントンとすばらしいコンビネーションプレーを見せよるんですよ」

 ピッチでは、ボールという最大のコミュニケーションツールがあった。久保は早い結婚によって私生活が落ち着いてきたこともあり、不動のFWとして順調にキャリアを重ねていった。

 今西は大木についても試合に出さないと成長しないと考え、J2の大分トリニータへレンタルに出すなどして、キャリアの覚醒を図った。大木の場合は技術の高さは誰しもが認めるところであったが、ケガの多さと運動量の少なさから、それに見合う評価を外国人監督から受けられなかったことが災いしていた。レンタル先の大分でも、ケガに見舞われて満足な活躍ができず、2000年のシーズン終了時に解雇されてしまう。

 J2をクビになった選手をJ1のレンタル元が戻すわけにはいかない。他のクラブのテストも受けたが、どこも不合格になり、大木は故郷、愛媛に戻ってハローワークで求人を探していた。そこに今西から電話がかかってきた。「何をしとるんや」「仕事を探しています」「広島に戻って来ないのか」「えっ、まだサッカー出来るんですか」「お前はまだ出来る。わしがまた取るから帰って来い」

 一度は戦力外とした選手に対し、会社のトップは今、必要なのはディフェンダーじゃないのかと渋い顔をしたが、守備の選手はシステムに馴染むのに時間がかかることを説明し、2001年7月までの半年契約でねじ込んだ。入団後も大木の苦闘は続いたが、6月20日ナビスコカップのFC東京戦、まさにもうあとのない崖っぷちから這い上がった。スコアは1対1で味方が退場者を出した劣勢の延長から出場。ここで結果を出せなければ、解雇は決まっていた。延長後半5分、盟友の久保からのパスに身体が自然に反応した。受けると即座に返し、そのまま前方への爆発的なダッシュを敢行した。久保はダイレクトパスで、これに応える。大木は織り込み済みだったそのボールを落ち着かせて、DFを1人かわすとそのままゴールにぶち込んだ。

「どうする?」「行け!」「よし、出せ!」

 話し方教室では身じろぎもせず、まったく無言だった2人のこれ以上ない雄弁なボールの会話であった。大木はこの決勝点で残留が決まり、久保、藤本(主税)らと攻撃を担う貴重な戦力となった。2007年には故郷の愛媛FCに移籍して、2012年までJリーグで現役を務める。あのときに広島に戻っていなければ、その後の人生はまったく変わったものになっていたであろう。

 高校時代にまったく無名であった久保は、1998年10月28日のエジプト戦でA代表に初招集されると、翌年も1試合、2000年には5試合に出場して着実に実績を重ねていく。トルシエもジーコも何より対戦した相手国の監督が、そのポテンシャルの高さを評価していた。しかし、久保本人にとって代表は決して居心地の良いものではなかった。

「ジーコの頃になると、後輩も増えて、飲んで本心がわかる相手もできてきましたけど、それまではやっぱりしゃべる人もおらんかったし、しんどかったですね」

 そういう中で今でも忘れられない試合があるという。トルシエ時代の2002年5月14日、アウェーのオスロで行なわれたノルウェー戦である。

「何か寒いところでやったときですけど、本当にしゃべる人がおらんで、息苦しかったときに先発やったんですね。ほんで始まる前に(ピッチから)スタンドを見たら、そこに今西さんがおって、目が合ったんです。来とるんや、と思ってびっくりしてたら、こうやってガッツポーズを作って見せてくれたんです。ほんで『ヨッシャー、やったる!』と思いましたね。それまでビビッてたわけじゃないけど、腹が据わるというか、そういうのがありました。でも何もできなかったけど(笑)」

 久保は今、廿日市FCで現役を続けながらストライカー養成コーチをしている。就任の経緯は連載の初号に記している。大木が愛媛を引退すると、すぐに電話をしてチームに誘い、広島県リーグで再び一緒にプレーしている。

「ベンさんには、また2トップ組もうやって言って誘ったんです。将来はS級取ってプロの指導者というよりも僕が一番、サッカーが楽しかったのは三輪小学校のときやったんで、そういう楽しさを子どもたちに、まず教えたいと思ってるんです。金沢で引退して広島に帰るのを選んだのはやっぱり、自分を人として成長させてくれた人がおったからです。人生の節目では『タツ、そういうときはな』といつも僕を信じて指導してくれました」

 今西のマインドを今、久保は子どもたちに伝えている。

(つづく)

【profile】
今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)−東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

久保竜彦(くぼ・たつひこ)
1976年6月18日、福岡県生まれ。筑陽学園高から、1995年サンフレッチェ広島に入団。高い身体能力を買われ、1998年レギュラーに定着し、2ケタゴールを記録。同年には日本代表にも選出された。トルシエ、ジーコ監督の下、国際試合でも活躍したが、ワールドカップには縁がなかった。2003年横浜F・マリノスに移籍。17ゴールを記録し、年間優勝に貢献。その後はケガに泣くことも多く、2007年横浜FCに、2008年サンフレッチェ広島に、2010年ツエーゲン金沢に移籍。2011年、現役引退を発表した。2013年、広島県社会人サッカーリーグ1部に所属する廿日市FCで現役復帰。廿日市スポーツクラブのストライカー養成コーチ、およびアンバサダーも務めている

木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko