左『英語化は愚民化』(集英社新書)/右『英語の害毒』(新潮新書)

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 元首相の森喜朗が日米首脳会談の際に、クリントン大統領に向かって「How are you?」と言うべきところを「Who are you?」と誤り、「I'm Hillary's husband」と返されたという逸話は有名だが、本人は重ねて「(メディアの)作り話だ」と否定している。いずれにせよ彼が、英語力云々の前に、国際社会では通用しない失言を繰り返す言語力の持ち主であることを再認識したばかりである。危うい英語といえば、東京五輪招致のスピーチが記憶に新しいだろう。所々でアクセントを誤りながら「ダイナミック!」にカタカナ英語で見栄を張った猪瀬直樹都知事(当時)や、福島原発について「the situation is under control」と世界の人々に向けてわざわざ英語で大ボラを吹いた安倍首相などなど、やっぱりここでも英語力をどうのこうのと問う以前の問題であった。

 小学校でも英語の授業が導入され始め、楽天やユニクロなどでは社内の英語公用語化が着々と進んでいる。「中高で6年間英語を学んだって日常会話すらできやしない」という、この国全体で抱えてきたコンプレックスをいよいよ打開すべきと、英語教育の比重を高める必要性が語られている。誰もがグローバル化の動きの中で働くわけではないのだが、「英語が出来るようになる」ことへの希求は疑ってはならない風土にある。今年4月末、安倍首相がアメリカ議会でスピーチしてスタンディングオベーションを受けたのは、それが英語でのスピーチだったことも大きい。あの場での評価は彼の自信の拠り所にもなり、安保法制を成立させなければならない強制力にもなっているわけだが、"日本を取り戻す"首相が、わざわざ自国語を捨てて拙い英語を使った姿勢を咎める人は、支持層の中にもなかなかいない。

 書店の新書コーナーで横並びになっていた『英語の害毒』『英語化は愚民化』とのタイトルを見かけ、「害毒」「愚民」という言葉の強さにたじろぎながらも手に取った。どちらの本も現政府が推し進める英語公用語化政策について「植民地」化であると厳しく断じている。施光恒『英語化は愚民化』(集英社新書)は冒頭で、2014年8月、内閣官房管轄下のクールジャパンムーブメント推進会議の場において「公用語を英語とする英語特区をつくる」という提言が発表されたことについて疑問を呈する。自ら日本語を手放すかのような措置はこの施策に留まらない。英語での講義を増やすことで「スーパーグローバル大学」の認定を得れば最大50億円の補助金が付くし、国家戦略特区構想のなかでは「公立学校運営の民間への開放」が明記され、この民間開放は「グローバル人材の育成」とくっ付けて語られていく。著者はこれを「新自由主義的な要請によって、英語教育を重視する教育」に向かうと断言しているが、これからTPPへの加入が決まれば、ますますこの力学が推し進められることになるだろう。

 英語教育を論じると「これからは英語が必要な時代なんだから」というシンプルな主張が最たる力を持ち続けるが、そのシンプルさで全てを振り払ってしまうべきではない。著者は「おわりに」で、この強いタイトル付けによって生じるであろう誤解を先読みするかのように、「日本社会を英語化する政策を批判しても英語教育を軽視しているわけではない。語学が堪能な人々の活躍を軽視するものでもない」と、英語を蔑ろにするわけではない姿勢を強調する。「国際競争力」「グローバル」と言ったフレーズに頼りながら急かされていく施策に対して、民主主義社会では「人々がそれぞれ、自分が自国の政治の主人公であるという認識を持つことが重要」と指摘していく。アメリカにチヤホヤされたことを何よりの成功体験とし、国内での議論を「早く質問しろよ!」「私が総理大臣なんですから」と手早く切り上げようとする政治に直面している現在では、この主張に強く頷くことになる。

 英語教育の有用性について議論すると、○×どちらの答えを持っていても、すっかり思考が停止し、互いの無理解を突つくだけになってしまう。具体的に言えば、「英語なしではビジネスの最先端では戦い抜けない」に対して「夏目漱石も福沢諭吉も英語の公用語化を危惧していた」をぶつけても建設的な議論は起こりにくいのだ。強制力のある政策には注意を向けつつ、あくまでも個々人で英語との距離感をはかっていくしかない。あらかじめ排しておくべき議論があるとするならば、自分の主張を通そうとするあまりにいたずらに暴走する議論だろう。

 永井忠孝『英語の害毒』(新潮新書)は、TPPが英語の公用語化を推し進めると懸念するなど『英語化は愚民化』との共通点も多いのだが、「英語ばかりを学ぶことは、かたよった世界観をもつことにもつながる」とするなど、やや乱暴な記載が目立つ。中国の国力増強により、中国人が英語を軽視し、「英語教育を軽減または停止することも考えられなくはない」と予測、そのことを理由に「英語が国際語だという"物語"」の危うさを指摘する。高校生に留学目的を問うアンケートで日本が中国・韓国よりも「語学の習得」のパーセントが高いこと(日本70.1%・中国43.3%・韓国42.9%/日本青少年研究所『高校生の生活意識と留学に関する調査報告書』2011年)を理由に「中国人・韓国人と比べても、日本人はアメリカにとって好都合な英語観をもっている」とし、これが「戦後の英語教育の帰結」だとするのは強引に思える。

 また、アメリカ・インディアンやオーストラリア・アボリジニなどの少数民族について、自分たちの言語を捨てざるを得なかった彼らは「白人の世界でも二級市民あつかいで、行き場のない根無し草になって」しまい、「希望や自尊心を失い、多くの社会問題を抱える」と決めつける記載は危うい。「アメリカのインディアンとエスキモーの自殺率は、アメリカ全体の平均より1.8倍」と関連づけて憂いているが、それならば自殺率の国際比較として10万人のうち13.7人が自殺するアメリカに対して、23.1人が自殺する日本(2012年推計・社会実情データ図録参照)はどうなる。全体の論旨には賛同する部分も多いのだが、言葉の壁があるからこそ今のところ外国人社長は少ないとし、「もし日本人の多くが英語の会話言語能力を持っていたらどうだろう? 言葉の壁がなくなる分だけ、外国人社長が出やすくなることが予想される」といった閉鎖的な懸念には首を傾げたくなる。いずれやってくる未来として「富裕層・経営者は外国人が専有し、英語の学習言語能力を駆使して会社を経営する。一方の日本人は貧困層・低賃金非正規労働者ばかり」と繋げるのも強引だろう。「外国人の進出ははじまっている」という見出しから、「テレビや雑誌に出るモデルの多くは白人かハーフだ」という内容が始まってしまえば、いよいよ閉口する。

『英語化は愚民化』で語られたように「日本社会を英語化する政策を批判しても英語教育を軽視しているわけではない」を軸足にするべきで、あたかも強い勢力の台風が襲いかかるかのように、英語旋風が日本の土壌を荒らしていくという考え方には慎重になるべきではないか。政治・経済・教育などの現場における言語のパワーバランスと、個々人との語学力とをそれぞれ分解して問うべきだろう。全部引っ括めて「英語なんて害だ」と宣言するのは無謀だ。大きなスローガンは、なにかと排他的な感性を携えてしまう。まず危ぶむべきは言葉の問題ではなく、安保法制やTPPで「対米従属」の度合をどこまでも高めようとする政治の問題だろう。英語という常にキャッチーな題材が眼前のリスクを見えなくさせるようでは元も子もない。
(武田砂鉄)

■武田砂鉄プロフィール
1982年生まれ。ライター/編集。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「マイナビ」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」「TRASH-UP!!」で連載を持ち、「週刊金曜日」「AERA」「SPA!」「beatleg」「STRANGE DAYS」などの雑誌でも執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。