クリエイティブと固く結びついた高畑監督の「左」


スタジオジブリのツートップの一人、高畑勲監督が左がかった考えの持ち主というのは、ご本人も隠そうともされていないことです。
たとえば『かぐや姫の物語』でも「私がそなたを望めば、そなたは私のものになるのだ」と刺さりそうな顎でセクハラする御門や、高貴な姫君としての生き方を強いる義理の父に反発して「私は生きるために生まれてきた!」と叫ぶかぐやなど、天皇制批判やフェニミズムを隠喩どころかセリフで喋らせている。もうちょっとオブラートに包んでも……と思える直球さでした。
東大仏文科卒業後、東映動画に入社。そして労働組合に参加して委員長に就任し、盟友・宮崎駿監督と出会ったのも労働争議の中です。東映動画の劇場長編でも最高傑作の一つといわれる『太陽の王子ホルスの大冒険』のスタッフもほとんどが労組組合員で、制作期間3年、1億3千万円もの制作費(現在だと約5〜6億円)を勝ち取れたのも労組運動のたまもの。クリエイティブと闘争は2つで一つ、矛盾どころか支え合っていたわけです。


狸コミュニティの格差社会まで抉りだす高畑リアリズム


今夜、日本テレビ系の金曜ロードショーで2年ぶりに放映される『平成狸合戦ぽんぽこ』も、そういう文脈で語られやすい高畑アニメの一つです。ときは高度経済成長期、多摩丘陵が造成されてニュータウンの開発が急激に進み、山がのっぺら丘にされて住処を奪われつつある狸たち。危機感から対策会議を招集し、何かに化けたり幻を見せる「化け学」で脅かして人間を追い出そうとあれやこれや。そして「妖怪大作戦」という一世一代のイベントをやり遂げるが、テーマパークの宣伝にすり替えられてしまい、押し寄せる近代化の波に飲み込まれていく……。
決起集会を開き、抵抗運動を繰り広げ、ある者は玉砕し、ある者はサラリーマンに化けて人間社会に溶け込んでいく。いかにも60〜70年代の学生運動に参加した学生達の戦いやその後の身の振り方を連想させ「全共闘世代のカリカチュア」とレッテルを貼られがちです。

多摩丘陵を開発する人間が体制サイド、抵抗する狸達が反体制とすれば、本作の視点は後者であり、「左」視点には違いない。しかし、リアリズムを徹底する高畑アニメにおいては「左から見ている」、狸コミュニティの中にカメラを置いている以上の意味はありません。
高畑リアリズムの原点は、商業アニメとして初めて海外ロケをした『アルプスの少女ハイジ』。それ以降『母をたずねて三千里』ではアルゼンチン、『じゃりン子チエ』制作にあたっては大阪を取材し、庶民の息遣いや空気感まですくい上げています。先週放送された『おもひでぽろぽろ』(本作の前作に当たる)でも山形県・高瀬地区をリサーチし、紅花畑や有機農法など「農家の嫁」の前提を踏み固めていました。

さらに『火垂るの墓』においては視点のリアリズムを導入。原作では美化されていた姉弟二人きりの生活の真実、兄の浅はかさや「不誠実な語り手」であることを暴き出したのは、以前の記事でも触れたとおりです。
高畑監督のカメラの前には、敵も味方もなし。そこに起こる事象のすべて、組織の内輪もめや現金をちらつかされて運動が四分五裂、化ける能力の有無で生活レベルも変わる格差社会の縮図まで、不都合な真実も含めてフラットに映しているのです。

多摩丘陵の乱開発と化け狸、二つのリアリズム


高畑監督いわく、『平成狸合戦ぽんぽこ』は総天然色漫画映画。もともと杉浦茂氏の『八百八だぬき』の原案から走りだした企画でもあり、人目のない場所では二本足で歩き、「化け学」で合体して巨大じゃんけんする狸たちは、昔の「テレビまんが」然とした表現です。
一方で、多摩丘陵のリアル描写は容赦なくガチ。山林が切り崩されてハゲ山に変わる過程を刻々と描き、狸もネズミを捕食して四本足で走る獣そのもの。車にひかれた凄惨な死体もしょっちゅう出てきます。
死臭も漂う現実と、狸が腹鼓を打ったり妖怪に変化する漫画チックな表現。リアリティレベルが違いすぎる二つが混じってていいの?
いえいえ、どちらも高畑監督にしてみれば「対等のリアリズム」でしょう。
過激派タヌキによる作業員の殺害にはギョッとしますが、それは「化け学を使う狸」が多摩丘陵の乱開発と地続きである証拠です。
多摩ニュータウンのそれは写真的なリアル。そして狸の能天気さや無軌道っぷりは「滅び行く抵抗勢力」の歴史を凝縮した観念的なリアル。笑う門には福来る、夢はいつかは叶う。そんな前向きさが少しずつ削り取られ、溶けるように消える様は「どこかで見た」ものです。
狸たちが負けた原因は、第一に呑気さや甘い見通しにある。騒ぎを起こせば人々は開発を白紙撤回してくれる、現場に来る作業員を追い出せば諦めてもらえるだろうと。せっかく政治家に入れ替われる変身術や、電車を脱線させられる幻術を持ちながら、長期的な見通しや計画性がなく、やがて運動は求心力を失って切り崩されていく
より根深い深い敗因は、彼らが「人間の文明を愛しすぎていた」こと。テレビに映る天ぷらにヨダレを垂らし、族長会議が滞りなく進行したのもマクドナルドのハンバーガー(遠い昔に思えます)のおかげ。最後の力を振り絞って再現した懐かしの風景も、ありのままの原生林ではなく、開墾されて田畑や炭焼き小屋もある「里山」、つまり人間が自然との共生のため作り上げた風景でした。
正しさを信じて突き進む国家権力に対して、抵抗勢力は迷いがあってまとまりきれず、力比べの前に心がすでに折れている。狸達は、そんな歴史の波間に消えていった人達の姿が重なります。『火垂るの墓』で社会と縁を切り、蛍のように儚く消えた兄妹を否定も肯定もせず、あるがままに映した高畑監督のカメラは、本作でも淡々と回り続けているのです。

喋りの名人達が表現する「滅びゆく日本の伝統」


「今日はほんの小手調べに過ぎん! 諸君、戦いはこれからだ!俺達は一人でも多くの人間を殺し、叩きのめし、ひねり潰し、この土地から追い出してしまわねばならない」
過激派のリーダー・権太のそんなアジ演説も強烈。木にしがみついて開発を阻止する姿は自然保護団体、「我ら特攻精神により、よし壮烈なる玉砕を遂ぐるとも、軟弱なる我らが同胞を奮起させ……」とぶち上げて機動隊と激突する姿は、全共闘世代のカリカチュアでしょう。
しかし、権太たち若い過激派達は、実はドラマの中心にいません。権太本人もつまらない理由で大怪我をして一時リタイアし、序盤と終盤しか見せ場がない。そして主役ポジションの正吉は「双子の星」作戦で人間を脅かしたり、食料の配給や交通安全など提案していますが、事態を大きく動かす活躍はしていません。
本作は「ロートル大活躍」アニメです。年齢105歳の鶴亀和尚や若手狸を指導するおろく婆、現地では神と崇められる四国三長老など、大活躍するのは中高年や老年ばかり。
そして声を当てている“中の人”も大物でゴージャスすぎる。鶴亀和尚は5代目柳家小さん、三長老の隠神刑部は「裸の大将」こと芦屋雁之助、六代目金長は3代目桂米朝ほか、20世紀を代表した喋りの芸達者が勢ぞろい。今は二度と肉声が聞けない名人たち、夢の共演です。

彼ら“古狸”の作画を、わざわざプレスコ、つまり肉声に合わせて作画するほどの手間をかけている。しかも映画のタイトルは○○合戦であり、見せ場は街をパレードする百鬼夜行の妖怪、講談や落語の伝統的な演目です。
光あふれる文明により、自然とともに駆逐された暗がり。闇のないところ、人が想像を逞しくして産み落とした妖怪の居場所もない。高畑監督が「滅びゆく抵抗勢力」としてレンズを向けたのは、生存を脅かされた狸たちと、昔の街や人里に息づいた古典文化だったのです。

高畑監督は「左」であり「反体制」です。が、ジブリの鈴木敏夫氏も驚くほどの読書量に支えられた深い教養が「体制により失われるもの」の視野を広げている。そういえば『風の谷のナウシカ』で儲けた資金をつぎ込んだ高畑監督のドキュメンタリー映画『柳川堀割物語』も、近代化の波に疑問を投げかける作品でした。
「左」の高畑監督が伝統を愛し、「右」に位置するはずの政党の元で文科省が偽の伝統である江戸しぐさを道徳教材に採用したり、なんと世界はややこしいことか。左右にとらわれず、両側から見つめることが大切だ……と説教くさい話より、桂米朝や柳家小さん師匠の達者な語りや、正吉=野々村真の意外にウマい熱演に耳を傾けたほうが充実したひと時が送れそうです。
(多根清史)