「核分裂投げ」「原子力発電パンチ」…無邪気に扱われてきた核。原発再稼働で考える『核と日本人』

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2015年8月11日、鹿児島県の九州電力・川内原発1号機が全国で初めて再稼働し、1年11ヶ月続いた「原発ゼロ」状態は終わりを告げた。「電力確保のためには/原発による雇用や経済効果もあるからやむなし」という声もある一方で、その安全性に疑問を抱く反対意見も根強く、賛否両論の飛び交うなかでの再稼働となった。

そして、再稼働するやいなや、さっそくトラブル発生のニュースが流れたのはご存知の通り。川内原発1号機の2次冷却系でトラブルがあり、九電は8月21日、出力を上げる作業の延期を発表をした。もちろん、こうした問題は川内原発に限った話ではなく、福島第1原発の汚染水漏れは繰り返され、もはやおなじみのニュースになりつつある。

3.11以降、原発あるいは核というものは、不安の対象としてネガティヴに語られることが圧倒的に多くなった。しかし思い返してみれば、「安全神話」が崩壊する以前、私たちは核の強大なエネルギーがもたらす恐怖すらも、無邪気に享受してきたのではなかったか。


消費されていく「イメージ」としての核


今回紹介する『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』(山本昭宏著、中公新書)は、戦後被爆国としてリスタートし、大国と肩を並べる経済大国へと成長した日本において、「核」というものへの認識がどのように変容してきたかを辿る本である。

日本人と核との関係は、広島・長崎に投下された「原爆」という悲劇の象徴として始まり、安定的な電気供給のために国策として推進された「原子力発電所」へと歩を進めてきた。その歴史のなかで、私たちは新聞・雑誌・テレビなどのマスメディア“だけ"を通して、核という存在を認識してきたわけではない。

本書がユニークなのは、報道や知識人の言説、世論調査などだけでなく、ポピュラー文化における「核」の扱い方に注目していることだろう。

あらためて考えてみると、私たちは映画やマンガなどを通して、膨大な「核のイメージ」に触れてきたことに気付かされる。手塚治虫の「鉄腕アトム」に代表される原子力によって動くロボット、核の影響によって現れる怪獣「ゴジラ」、原爆による病によって悲劇的な別れを経験する男女、世界滅亡のために原発を襲う/核ミサイルを狙う悪の組織……と枚挙にいとまがない。最近で言えば、「核戦争後の荒廃した地球」という舞台設定を持つ『マッドマックス』シリーズなども同様だ。さらには「とにかく強そう」なイメージを付与するために、「核分裂投げ」「原子力発電パンチ」などと格闘マンガの必殺技名に使われるに至っては、核はもはや「記号」でしかない。そして、いつしか核の危険性は漂白され、「消費」の対象となっていく──。

カルチャーに見る「核受容の歴史」


カルチャーにおける核の描き方の変遷を追うことは、その時代時代を生きてきた人間が、どのような感情でもって核を受容してきたかを辿ることである。それは放射能への恐怖かもしれないし、原発がもたらすと思われてきた「明るい未来」への希望かもしれない。

かつて日本は、核の平和利用について、「被爆国だからこそ(その経験を生かし)原発を推進する資格がある」「被爆国だからこそ(その危険を熟知しているのだから)原発を手放すべきである」という、立脚点は同じながら異なる立場から議論されてきた。本書が指摘するのは、3.11以降の原発をめぐる議論が、それと同じ形で繰り返されているということである。「福島の原発事故を経験したからこそ、今度こそ安全に運用していくことができる/原発を手放すべきだ」と再び平行線を辿る2つの意見の行き着く先は、漠然と原発の安全神話信じてこられた「3.11以前の日本」なのだろうか?

『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』は、原発をめぐる議論に、新たな視点を提示する一冊となるはずだ。
(辻本力)