サンデル教授「白熱教室」を徹底批判『対話の害』教授に正義を教える資格はない

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“劣質な、望ましからざる教育実践が行われている。派手な宣伝とともに行われている。ところが、教育界・教育学界では、だれもこれを批判しない。格好よく見える外形・現象に酔ったのか、無知・無思慮・不勉強で、何の問題意識も生じないのか。”
書き出しから苛烈である。
『対話の害』(宇佐美寛・池田久美子/さくら社)は、サンデル教授「白熱教室」の徹底批判本だ。


五人殺すか、一人殺すか


NHKで2010年4月に放送されたサンデル教授の『ハーバード白熱教室』。
その後も、なんとかの白熱教室とか熱中教室といった類想タイトルの番組や本が続々と出てくるほど大ヒットした。

『対話の害』が具体例として主に取り上げて批判するのは、白熱教室のレクチャー1「殺人に正義はあるか」の「トロッコ問題」である。
大掴みに説明すると以下のような問題だ。

時速一〇〇キロの猛スピードで走ってる路面電車。行く手に五人の労働者がいるが、ブレーキが利かない。
このまま進むと五人が確実に死ぬ。が、脇にそれる線路がある。
しかしそちらにも労働者が一人いる。ブレーキは利かないがハンドルは利くので、ハンドルを切って脇の線路に入れば、一人は殺してしまうが、五人は助けることができる。
さて、どうする。

もうちょい大雑把につかめば、こうだ。
暴走列車の運転手が君だ。ハンドル切らねば五人死ぬが、切れば一人死ぬ。どっちが正義か?

これに対して、宇佐美は問題をこう指摘する。
“「五人殺すか、一人殺すかのどちらかしか可能性は無い。そう思え。それ以外は思うな。」
サンデル氏は、そう教えているわけである。
これは、もう笑うべき強制である。落語的である。”
警笛を鳴らせばいいではないか。
そもそも路面電車が時速一〇〇キロという猛スピードで走ることが正義に反するではないか。
サンデル氏が設けた条件の枠組みを超える答えは排除されることが問題である、と。

“サンデル氏の授業について行くのに必要なのは、問題を疑い、本質を突き詰める思考ではない。出題者の意図を読むだけの浅薄な思考である。”と池田は指摘する。

サンデル教授の授業は、劣質な、望ましからざる教育実践か?


出題者の意図を読み、学生が即座に答える。
その予定調和が、一瞬ほころびそうになるシーンがある。
臓器移植のケースで同様の対話を展開するなかでのやりとりだ。
“男子学生4 僕は違う可能性に賭けたいです。臓器が必要な五人のうち最初に亡くなった人の四つの臓器を使って、残り四人を助けるんです(一同笑)。
サンデル それは名案だ。実に素晴らしい。ただ一つの難点は、私の設定した哲学的な問題を台無しにしてしまったことだ(一同笑)。”
男子学生4が示した可能性は、掘り下げられることはない。「一同笑」でスルーされる。
サンデルの出題の意図を超えるからだ。
設定を揺さぶるような問いや提案は、“哲学的な問題を台無しに”するので歓迎されないことが学生にメッセージとして伝えられる。
枠組みの設定する権利は、サンデル教授に独占され、学生は、その範囲の内側でのみ発言をするように誘導される。

『対話の害』は、宇佐美寛と池田久美子の共著である。
宇佐美寛は、千葉大学名誉教授であり教育学博士。教育に関する40を超える著作があり、これまでも他の先生の授業方法をバッサバッサ斬りまくっている。
共著者の池田久美子は、三育学院大学講師。定員割れの短大で学生の低学力化と悪戦苦闘する実践を描いた傑作『視写の教育-〈からだ〉に読み書きさせる』等の著書がある。

「はじめに」「序論」「補論」を宇佐美寛が担当。
本論となる五つの章を池田久美子が担当している。
池田久美子は、看護専門学校の「論理学」の授業で、このサンデルの授業について取り上げている。学生の発言や作文が引用される。どのようにして授業を進めたか、それはサンデルの進め方とどう違うか、が示される。
サンデルの授業を批判して終わりではなく、この授業の様子そのものが、「では、どういう授業がありえるのか」という答えのひとつになっている。

アクティブ・ラーニングはどうすれば可能か?


次の学習指導要領の全面改訂の目玉は「アクティブ・ラーニング(能動的学習)」と言われている。
学生が能動的に学習するというのは、どういうことだろうか?
先生が隠し持つ授業プランを、学生たちが察して発言行動するような予定調和は、能動的な学習とは程遠い。
グループにわけて数分間討議させ、予定の範囲内の答えを言わせるような方法は、学生をアクティブにしない。無意識に先生の眼の色をうかがい、萎縮しつづけるだけだ。

池田久美子は第五章で、こう主張する。
“授業は、学生の自立を促すために行う。教師は、学生が教師を超え、教師から自立するために教える。だから、教師の設定した枠組みを疑う力を育てなければならない。その枠組の限界を確かめ、自ら、新たな枠組みを作る力を育てなければならない。”
上っ面だけアクティブ・ラーニングを装って、空気を読む能力だけを磨くような授業をはびこらせてはいけない。
そのためにも『対話の害』で示された主張を真摯に検討すべきだ。
(米光一成)