ホテルには、「時間」という最も厳しい試練を乗り越えてきた、長年愛されるスペシャリテがある。

様々な人の人生の思い出が刻まれたその一皿。ここに紹介する料理の数々は、シンプルでありながら、ベストワンとオンリーワンを極めたまさに逸品である。



赤ワインにつけ込んだ肉は水分をとって焼き色をつけ、デミグラスソースで煮込んでいく。塊で6時間煮て、カットしてまた煮込んでいく
東京ステーションホテル『カメリア』
黒毛和牛のビーフシチュー

東京


〜具材のビーフはすべてが黒毛和牛。100年愛されるビーフシチューの秘密とは〜

まずはじめに、『東京ステーションホテル』のダイニングでは、他国のビーフを使っていない。具材として入る肉は、なんとすべてが黒毛和牛となっている。

それは、総料理長である石原雅弘氏の“東京駅におよそ100年続くホテルで海外の肉では意味がない。日本の美味しいものを知ってほしい”という深い歓迎の気持ちの表れである。その黒毛和牛を使った代表的なメニューが、このビーフシチューだ。



黒毛和牛のビーフシチュー

そもそもビーフシチューは、初代総支配人が日本初の西洋料理店『築地精養軒』の料理長だったことから生まれたメニュー。そしてその味は、2012年のリニューアルを期にアップグレードされた。

これまでのビーフシチューは脂の多いばら肉を使っていたのを、いまはよりヘルシーな肩バラ肉を使用。また仕上がりまでさらに時間を費やすようになり、のべ5日間をかけ完成させる。デミグラスソースは丁寧に牛すじを長時間炒めて作られ、肉は生のまま1日ワインにつけ、中まで香りを染み込ませる。

小麦粉は使わず、とろみはすべて野菜によるものなど、細部のこだわりをあげればきりがない。“またここに戻ってきたときに食べてほしい”その心意気が、このシチューにかけるこだわりを増やしているのだった。


次は、『帝国ホテル』で長年愛される逸品



シャリアピンステーキ
帝国ホテル 東京『ラ ブラスリー』
シャリアピンステーキ

飯田橋


〜料理長のチャレンジが生んだ、後世に引き継がれるホテルの顔〜

シャリアピンステーキが、『帝国ホテル』に滞在していたオペラ歌手、フョードル・イワノビッチ・シャリアピンのために生み出されたものとはよく知られた話。

1936年に来日した際、シャリアピンは歯痛に悩まされていたがどうしてもステーキが食べたかった。そのリクエストに、当時『ニューグリル』の料理長だった筒井福夫が機転を効かせてすぐさま対応。



玉ねぎにつけることで柔らかくなり、少し甘い香りも漂せるシャリアピンステーキは、ブルゴーニュのピノノワールと相性がいい

筒井はすき焼きをヒントに、肉を柔らかくするため、みじん切りの玉ねぎにステーキを漬け込んでから焼いた。とっさの判断で生まれたこのレシピだが、その後、ホテルの看板メニューとなり、さらには全国に波及する料理となった。

材料は玉ねぎ、牛肉、バターに塩こしょう。そう聞くと家庭でも作れそうに思えるけれど、決してホテルと同じ味にはならない。まず肉は、ホテルの肉の仕入れを担当する肉のスペシャリスト“ブッチャー”が、このステーキに最適なランプ肉を選定、熟成させている。

そして玉ねぎの炒め方は、甘過ぎても辛さが残ってもいけない絶妙なサジ加減が求められる。それは歴代の先輩から教わることで、経験を重ねることでしか感覚を掴むことはできない。

これは、食のプロフェッショナルの力が集結した、ホテルならではのひと皿なのだ。


次は、『ホテルニューオータニ』で長年愛される逸品



幼鴨フィレ肉のロースト マルコポーロ
ホテルニューオータニ『トゥールダルジャン』幼鴨フィレ肉のロースト マルコポーロ

永田町


〜鴨の数字に込められた、グランメゾンの歴史とプライド〜

言わずとしれた『トゥールダルジャン』のシグネチャーディッシュといえば、“幼鴨フィレ肉のロースト マルコポーロ”である。

これは、4種の胡椒のソースで仕上げた幼鴨のローストで、一羽ごとのナンバリングがあまりにも有名。このナンバリングは19世紀末から始まり、それは鴨の産地への強いこだわりを表すものでもあった。



こちらが幻鴨であることを証明する、証書

もとをたどれば、ここで使用されているシャラン産の鴨は1600年代に起きた宗教戦争の際に、南仏に逃げてきたスペイン人がもってきた鴨に由来する。

数年後に当時のオーナーがそこで育った鴨に注目。特定の農家を支援し、そこから限定入荷した。

そして、400余年の歴史をもつブランドとしてパリ本店と同じクオリティをゲストに約束し、美しい自然のなか育った鴨だと証明するためにも、このナンバリングは必要となった。



格式高い空間。パリ本店と比べ遜色ないエレガンスさが広がる

東京店オープンの際、パリ本店と同じ鴨を入れるためには様々な課題があった。最上質の鴨をよりフレッシュな状態で入荷するということもそう。それら難題をクリアし、東京店はパリ本店と同じ味を提供し続けている。

4重奏のような余韻のある胡椒のソースをまとい、今日も『トゥールダルジャン』の鴨はゲストを喜ばせる。


次は、『ハイアットリージェンシー東京』で長年愛される逸品



サーモンのオゼイユ
ハイアットリージェンシー東京
『キュイジーヌ[s] ミッシェル・トロワグロ』サーモンのオゼイユ

都庁前


〜あのフレンチ定番料理の、元祖がここに〜

フランスで1968年以来ミシュランガイドで三ツ星をとり続けている『メゾン・トロワグロ』。その名門が生んだ料理が、この“オーセンティックなサーモンのオゼイユ風味”だ。

これは、薄いサーモンをレアにソテーし、オゼイユという少し酸味のあるハーブを白ワイン、クリーム、レモンと合わせたソースを合わせるフレンチの定番料理。



サーモンは火が入りすぎないよう、フライパン自体を火の上から早めに外す。スコットランド産などの大きなサーモンを使用している

オープン当初『キュイジーヌ[s] ミッシェル・トロワグロ』のメニューにはない料理であったけれど、本店で食べたことのあるゲストの熱いリクエストにより、2012年から展開することとなった。それは1964年にトロワグロ兄弟が発案した当時のものと、レシピもプレゼンテーションもほぼ変わっていない。

3代目ミッシェル・トロワグロにこのレストランをまかされたギヨーム・ブラカヴァルはこう話す。

「この料理に他のもの足す必要はありません。最近プレートに色々なものを飾るレストランが多く、それも良いですが、ミッシェルの多くのレシピはこのように3、4種類の材料しか使わない。

レシピによっては何度も試行錯誤をして変えることもあるけれど、満足をしていれば変えなくていいんです。私がこの料理で気にするのは、火入れと、酸味や苦みのバランスのみです」


次は、『ザ・キャピトルホテル 東急』で長年愛される逸品



パーコー麺
ザ・キャピトルホテル 東急『ORIGAMI』
パーコー麺

溜池山王


〜かの政財界の重鎮やセレブリティたちが愛した、不変のパーコー麺〜

初めて食べる人でも懐かしい味がする。

それが『ORIGAMI』のパーコー麺である。それはきっと、通常のチキンブイヨンの10倍の鶏ガラとたくさんの野菜によるコンソメのような風合いもあるスープのせいだろう。ベーコンの旨みも効いた少し洋風なこのラーメンは、提供当初から外国人ゲストの評判もよいものだった。



改良後は加水率を高くし、伸びにくくつるっとした麺に。季節により素材のコンディションが変わってくるので配合も変えている。別皿でつく薬味が麺の味の幅を広げる

しかし、当時は箸を上手く持てない外国人も多く、それを思いやって伸びにくい麺に改良したというエピソードもある。スープの原価率の高い高級麺でいて、常に食べる人に寄りそうようなメニューなのだ。

パーコー麺はひとつにして、その食べ方はゲストによってさまざま。店舗マネージャーの池田直樹氏は、「お客様には“自分のパーコー麺”というものがあって、それが忘れられない味になるんです」と話す。

別皿でつく薬味のネギは多めに盛られ、それをまったく入れない人もいればお代わりをもらう人もいる。



シャトー・ラトゥールとも相性抜群?!

また、同ホテル内の中国料理『星ヶ岡』で食事をしてから〆に食べに来る常連や、極めつけはパーコー麺にシャトー・ラトゥール(当時8万円相当)を合わせた豪傑も!

自流の食のスタイルをつくる楽しみを教えてくれる、大人の嗜み的一杯である。



逸品をいただくのにふさわしい空間


次は、『ウェスティンホテル東京』で長年愛される逸品



特製メンチカツサンドウィッチ
ウェスティンホテル東京 『ザ・バー』
特製メンチカツサンドウィッチ

恵比寿


〜サンドウィッチに秘められた開業前のシェフたちの奮闘〜

1994年、『ウェスティンホテル東京』が開業に向け準備を進めていたとき、シェフたちはグランドメニューをどうしようかと奔走していた。みなで何回も料理を作り誰のものが一番美味しいか議論したり、外へ食べに出かけたりして研究を重ねていた。そしてよくバーへ飲みに行った。

そんなとき、とあるバーで見かけたのが、メンチカツサンドだった。



ソースはデミグラスソース、トマトソース、マスタードを10:5:2 で配合。ウイスキーと合うように、ブラックペッパーを少し多めにふっている

その出会いをヒントに、バーでお酒を飲む人のための、肉がたっぷりのサンドイッチを出すことを即決。それからは改良を重ね、どこよりも美味しいと自負するウェスティン流のメンチカツサンドを完成させた。

そのメンバーのひとりであった当時32歳の沼尻寿夫氏は、いまでは総料理長に。メンチカツサンドのレシピは当時から変わっていない。1人前に使う肉は約130g。

ホテルで出す国産牛のステーキ肉を自分たちでひき、ソースにはじっくり煮込んだ自家製のデミグラスソースを使用。



究極のカツサンドは贅沢すぎるランチの選択肢のひとつとして加えたい

ジューシーな肉汁と香ばしい衣、それらに絡む濃厚なソースが挟まれたサンドウィッチは、ウイスキーのソーダ割りと相性がバッチリだ。

想定外の嬉しい出来事は、お酒を飲めないゲストもこの一品のためにバーの常連客になってくれたことだった。


次は、『シェラトン都ホテル東京 』で長年愛される逸品



担々麺
シェラトン都ホテル東京『中国料理 四川』
坦々麺

白金高輪


〜自信があるから流行りにのらない守るのは必要最小限という潔さ〜

万人に人気の高い担々麺は、いまではいたるところに専門店やそれが推しの店がある。そしてその傾向は辛さや濃厚さを競うように、複雑化しているとも言えるだろう。特に最近は山椒が手に入りやすくなったため、山椒を強く効かせているところが多い。



これらは担々麺のスープに入る素材で、ラー油やねり胡麻に加えアクセントにナッツやザーサイが入る。ラー油は最後に2 度がけするのが肝。ピリッとした辛みにビールが進む

そんな流れに反し、『中国料理 四川』の担々麺の材料は創業時より変わらない。「担々麺の味を決めるのはラー油とねり胡麻につきる」と話すのは料理長の橋本暁一氏。そのふたつの味わいを大事にするため、ニンニクも山椒も加えないのだ。だからこそ、自家製のラー油とねり胡麻の調理には、秒単位のタイミングまで気を抜けない。

肉桂、八角、山椒、ネギで香りづけした200度以上の油を一味唐辛子にかけ、その後、完全に分離したラー油は、辛いだけじゃなく滋味深い余韻がある。そのラー油をまとう麺は、この担々麺のための特注品。汁がからみすぎないストレート麺で、唐辛子をたたせるため卵はおさえめ。

その他の麺類は、逆にこの麺に合わせて味を決めているというから、『中国料理 四川』での担々麺のプライオリティの高さがうかがえる。そんな一杯には記憶に残る味があり、一度味わった人はその記憶を確かめるため、またここに戻ってくるのだろう。


次は、『山の上ホテル』で長年愛される逸品



天ぷら定食(夜)
山の上ホテル『てんぷらと和食 山の上』
天ぷら定食

新御茶ノ水


〜天ぷらは瞬間芸。単純なことこそ最善を極める必要がある〜

かの池波正太郎がかつての料理長、近藤文夫をひいきにしたことでよく知られる『山の上』。多くの文士たちが通った天ぷらの老舗であるが、当時から変わっていないこと、そして変わったことの両方がある。

前者のひとつめが、いまでも氷の冷蔵庫を使っていること。これは素材を生かす名脇役であり、木製の扉の中の大きな氷は、日々氷屋によって取り替えられている。



使用するごま油は、ごまの香りが強いものと香りの弱いものを1:2 で使用。かつては1:1 だったが素材の香りを生かすために変更したそう

電気冷蔵庫ではどうしてもネタが乾燥し、湿度を保つにはこの方法が一番なのだ。そしてこの店では、揚げ油をいっさい継ぎ足ししない。10名に使用したら、贅沢にも油をそう取っ替えしているのだ。

そして変わったこと、もとい柔軟に対応しているのが衣の具合である。というのも、これは状況や季節に左右されることで、例えば梅雨どきの粉は湿気を含み水分が出やすいのでいくつかの工夫が必要となる。

目指すは油に入れたときに雑味のない音が出る衣だ。音が粗いと、それは衣から水分が出過ぎていることを意味する。



「天ぷらは言葉で学ぶことはできない料理。ただ自分が努力し続けるしかないのです」と5代目料理長の島貫 茂氏は語る。

“衣をつけて油で揚げる”この至極シンプルな工程こそ、技量がものをいう。


最後は、『パレスホテル東京』で長年愛される逸品



ドライマティーニ
パレスホテル東京『ロイヤル バー』
ドライマティーニ

東京


〜マティーニの味を決めるのはカウンター越しの会話と表情〜

『パレスホテル東京』には、日本にマティーニを広めた伝説のバーテンダー、今井清氏がいた。

今井氏はまだ日本に冷蔵技術が普及してない戦後間もないころ、それまでは常温に置かれていたジンを冷やしてからマティーニをつくった初めての人だ。そして、マティーニをもっとも美味しく飲める形状のグラスを独自に開発した。



オレンジビター、ゴードンのジン、ノイリープラットのベルモットと材料はこの3 つだけ。氷は解けにくいように2 回冷凍庫でしめている。

通常よく見る鋭角に広がったグラスでは辛さを感じやすく、かといって丸いと柔らかすぎてもの足りない。今井氏はその中間をとり、上は鋭角で口あたりはシャープに入ってきて、グラスを傾けると優しくとろっ喉を通る、そんなグラスをホテルに残した。

その仕事ぶりからMr.マティーニと呼ばれ親しまれた今井氏が『ロイヤル バー』を去って数十年。

いまでも、カウンターでは圧倒的にマティーニがでる。使う銘柄、グラスはあの頃のままだけれど、これだというレシピはないとバーテンダーの大竹学氏は言う。



ひとりでどっぷり雰囲気に浸るのもよし。大人のどんな夜にもしっくりくる。

「一番重要なのはお客さまに合う味をだせるかどうか。疲れていそうならジンを少なめにしたり、ふくよかな香りをたたせた方がいいかなと思ったらオレンジビターを増やしたり。その日のお客さまとの会話や表情から、ぴったりの一杯を探すようにしています」