放送90年ドラマ「経世済民の男 高橋是清」の前編が今夜9時からNHK総合で放送される。

高橋是清は明治から昭和にかけて活躍した財政家・政治家だ。1921年から翌年にかけて首相を務めたときには、丸顔にヒゲを生やした風貌から「ダルマ宰相」とも呼ばれた。もっとも、今回のドラマで高橋を演じるオダギリジョーはダルマ顔からはかけ離れているが。

自らの首相在任中に兼任したのを含め、7つの内閣において通算で約8年9カ月も大蔵大臣を務めた高橋は、それ以前には日本銀行に勤め総裁にまで登りつめている。しかし日銀に入るまでにはじつにさまざまな職業を体験しており、仮にそのすべてを職務経歴表に書こうとするならとても1枚には納まりきりそうもない。ドラマを観る前のガイドとして、ここでその異色の経歴をちょっと振り返ってみたい。

奴隷に買われた少年


高橋は『立身の経路』(1912年)、『高橋是清自伝』(1936年)といった自伝を残している。それを読むと、10代のくだりからいきなり波瀾に富んでいてじつに面白い。酒や女性がらみの失敗談も多い。


幕末の安政年間、1854年に江戸に生まれた彼は、幼くして仙台藩の足軽・高橋是忠の養子となる。満13歳のときには仙台藩の留学生となりアメリカに渡るが、その旅の途上、酒代に小遣いをすべて注ぎこんだあげく一緒に留学した友達からもカネをとりあげたことが先輩にバレて、サンフランシスコに到着したとたん、「おまえはこの船で帰れ」と一喝されたという逸話も残る。

留学時には、横浜で商店を経営していたアメリカ人の紹介でオークランドの一家庭に下宿しながら、そこの婦人から語学を教えてもらうなどした。しかしその家の召使いとトラブルを起こし、家を出たいと主人に申し出たところ、「おまえの体は3年間の契約で買ってあるので、それは許されない」と言われてしまう。じつは下宿するにあたり高橋が言われるがままにサインした書類は、奴隷の契約書だったのだ。結局、幕府からサンフランシスコ領事を委嘱されたプルークスという人物に訴え出ることで、この契約は破棄されることになる。この間、日本では明治維新を迎えようとしていた。

テロに斃れた恩人・森有礼


幕末から明治にかけて新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争で、仙台藩は幕府方についたため、その敗北後は賊軍の汚名を着せられる。1868年に帰国した高橋たち同藩の留学生はそれゆえ身分を隠しながら一時隠遁生活を送った。このあと、彼らを引き取ったのが、当時外国官権判事を務めていた森有礼(ドラマでは谷原章介が演じる)である。

森有礼は高橋に対して大学南校(東京大学の前身)への入学や、のちには文部省入りを後押しするなど、恩人ともいうべき存在だった。だが、伊藤博文内閣で初代文部大臣を務めていた1889年、大日本帝国憲法発布のその日に暴漢に襲われ、翌日死亡する。

不思議なことに高橋の人生にはテロリズムがことあるごとにつきまとう。首相になったのも前任者の原敬が暗殺されたのを受けてだったし、ほかならぬ高橋自身が1936年の2・26事件で青年将校に自邸を襲われ、殺害されてしまう。なお、高橋邸は現在の草月会館(東京・赤坂)の西隣にあった。その跡地はいま高橋是清翁記念公園となり、邸宅のほうは東京都小金井市の江戸東京たてもの園に移築されている。


芸者の「箱屋」も経験


大学南校に入った高橋はまもなくして教官を任されることになる。しかし同時に芸者遊びを覚え、ついには芸者と芝居見物をしているところを教師に見つかり、学校にいられなくなってしまった。

放蕩三昧の末に借金を抱えた高橋が頼ったのが、東屋桝吉という芸者だ(ドラマでは壇蜜が演じる)。高橋は桝吉の三味線を箱に入れて送り迎えをする「箱屋」の手伝いまでしている。まだ17歳ぐらいのころだ。いたずら心から、桝吉の出ているお座敷のちょうど盛り上がっているところを見計らい、わざともらい下げに行って客をシラケさせるということもよくやったらしい。ちっとも懲りてねえな、こいつ。

桝吉とは結婚するはずだったが、諸事情あって一緒になることはなかった。今回のドラマの脚本は女性関係で色々あったジェームス三木だから、きっとそのあたりもくわしく描かれることでしょう。

官職を投げ打ってペルーへ


その後、高橋は大蔵省や文部省に勤めたり、学校で英語を教えたりと職を転々とする。大蔵省時代には、当時郵便事業の整備にあたっていた前島密(1円切手の肖像でおなじみの人)の通訳となったが、まもなくして前島と大喧嘩をして辞職している。この間、友人の誘いで乳牛事業に出資して失敗したり、教え子の奨学金づくりのため相場に手を出したりもしている。相場でもひどい目にあったが、どうして損をしたのか究明するべく自ら相場の仲買店を買い取り、仔細に取引の実態を観察する熱心さだった。

1887年、満33歳のときに農商務省の初代・特許局長にまでなったものの、それから2年後には職を投げ打って南米のペルー銀山の開発に赴いている。この少し前に高橋は、最初の妻に先立たれたあと二人目の妻・品子(ドラマではミムラが演じる)を迎えているのだが、いきなり地球の裏側のペルーへ行くと言い出した夫に彼女ははたしてどんな反応を見せたのだろうか。ペルー行きの顛末とあわせてドラマで確認したい。

日本銀行券の肖像になった唯一の日本銀行総裁


高橋是清が日本銀行に入ったのは、本店建築の事務の手伝いとしてだった。生え抜きの日本銀行員以外で総裁になった人物は、いきなり正副総裁かかなり高い地位で入ってくることが大半だが、そのなかでヒラとして日銀に入った高橋はかなり異色といえる。

日銀ではのちに副総裁として、日露戦争の戦費調達のため外債募集のため奔走、その成功により一躍名声を高めた。このときの様子は、やはりNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)で西田敏行によって演じられていたのが記憶に新しい。

日銀時代、さらにのちの蔵相時代にいたるまで高橋の経済政策の根底に一貫したものは何だったのか。これについて内閣府事務次官の松元崇は次のように説明する。

《それは、国民の福利のために経済を発展させることであり、そのために資本を低利で利用できるようにすることであり、資源の無い日本では、資本を確保するために貿易の振興を図ることであり、そのために産業の国際競争力をつけるとともに国際協調を行うことである、というものだった》(松元崇「高橋是清『経済論』で国運伸長を説く」、中公クラシックス版・高橋是清『経済論』所収)


1931年末に成立した犬養毅内閣(ドラマでは犬養を舘ひろしが演じる)で4度目の蔵相に就任した高橋は、日本銀行券の発行限度を1億2千万円から一挙に10億円に引き上げ、赤字国債の日銀引受を実施した。こうした一連の政策から彼は積極主義者とも呼ばれたが、それはけっして国力の限度を超えた放漫を許すものではなかった。そのことは1935年秋に翌年度の予算案の審議において、軍部による巨額の軍事費拡張の要求を断固として拒否したことからもあきらかだ(吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』)。しかしこのことが軍人たちの怒りを買い、結果的に彼の命を奪うことになってしまう。

亡くなってわずか15年後の1951年、高橋是清は五十円紙幣の肖像にもなった。日本銀行券に日銀総裁経験者の肖像が使われたのは、いまのところ彼が唯一のケースである。
(近藤正高)