ザハ・ハディド案がお流れになったと思ったら、今度は一転「競技機能に限定したお金をかけない簡素なスタジアム」だという。善し悪しの基準は、高いか安いかに向いている。新国立競技場話は、地味で面白味のない貧しい方向に進んでいる。球技の時はトラックなし。陸上競技を行う場合はトラック付きに変化する可動式スタンドの設置もなしだという。
 
 ちょっと待ってくれませんかと言いたくなる。
 
 スポーツ観戦を娯楽とするなら、スタジアムも娯楽施設の体を成していなければバランスは取れない。観戦者の心をつかむことはできない。プレイヤーファースト、アスリートファーストとはよく言われる台詞だが、それ以上に、スタジアムは観客ファーストである必要がある。スタジアムは、決して安くないチケット代を払うお客さんを満足させる場所でなければならない。観客不在のアスリートファーストは非エンタメ。マイナー競技の発想だ。

 想起してしまうのは、各都道府県にある国体の会場。劣悪な観戦環境にある○○県総合運動競技場だ。2002年W杯のために建設されたスタジアムも、概ねこの延長線上にある。
 
 ザハ案は、模型の段階で終わったが、こちらはデンと現存する。多くのメディアも、国民も、ザハ案を激しく非難するが、社会に溶け込めず、コンクリートの塊と化した現存スタジアムにはとても優しい。問題視すらしていない。
 
 このままでは、新国立競技場が、従来の枠を脱し得ない社会性、娯楽性、機能性に乏しい貧相なスタジアムになってしまうのではないかと心配になる。
 
 だが、そうこうしていると突然、全く違う意見を耳にすることになった。「世界に誇れるアジアの中でダントツのスタジアムを!」。発言の主は川淵さんだ。「W杯を再び日本で開催するためにも8万人規模のスタジアムは不可欠」と息巻いたという。
 
 地味な方向に進もうとしている舵を、グッと反対方向にたぐり寄せようとする派手な声だ。6万では小さい。8万にせよ。でないと、W杯決勝は開けない。だから……という論法だが、川淵さんは、いつ日本に次回W杯開催の機会が巡ってくるつもりでいるのだろうか。

 欧州の中心に位置するサッカー大国、ドイツでさえ、1974年の次は2006年だった。南米のサッカー大国、ブラジルも1970年の次は44年後。2014年だった。プライオリティの高いはずの両国でさえ、この間隔だ。東京五輪にしても前回は1964年。2020年大会は56年ぶりになる。日本で行われる2度目のW杯は、常識的に考えて2040年より前にはならないはずだ。
 
 いま東京五輪の20年以上先を見据え、どデカい話をするのはナンセンス。仮定の話によるデカい話は、この時代通らない。デカい話をするなら、もっと別の、社会的に筋が通る現実的な理由が欲しい。

 それは、いま語られている簡素な(よく言えばだが)スタジアム話についても言える。簡素にする理由は何か。

 簡素とはいっても、スタジアム建設には最低でも500億円から1千億円程度はかかる。利用価値の低いものを建ててしまえば結局は大損だ。安物買いの銭失いになる。安ければいいと言うものではない。

 スタジアムは一度建てられれば、その場に50年は鎮座する。あってはならないのは失敗作。少々高くても、それに見合う成功作なら、言い換えれば、国民の負担に見合う効果が得られるなら、税金の使い道として理に叶うものになる。
 
 問われているのは、新国立競技場というスタジアムに、我々は何を望むのかということだ。どんな場所、どんな空間であって欲しいか。どんな機能、役割を果たして欲しいと願うか、だ。

 あるべきスタジアムの理想とはなにか。そこのところが、いまの議論に最も欠けている点だと思う。