追悼・岩田聡氏。ゲームで辿る天才プログラマの軌跡 (3.任天堂社長就任前後)

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第1回:追悼・岩田聡氏。ゲームで辿る天才プログラマの軌跡 (1.初期ファミコン編)
第2回:追悼・岩田聡氏。ゲームで辿る天才プログラマの軌跡 (2. 後期HAL研編)第3回:追悼・岩田聡氏。ゲームで辿る天才プログラマの軌跡 (3. 任天堂社長就任前後編)天才プログラマー社長・岩田聡氏が手がけたゲームソフトを振り返り、故人の足跡をたどる連載も今回で最終回。前回のHAL研編に続いて、岩田氏が任天堂の社長に就任する前後に深く関わった『大乱闘スマッシュブラザーズDX』や『ポケモンスタジアム』&『ポケットモンスター金・銀』、『大合奏!バンドブラザーズ』+αを振り返ります。

「自分は、他の人が喜んでくれるのがうれしくて仕事をしている」

『MOTHER2』の開発を通じて親友となった糸井重里氏に、そう語っていた岩田聡氏。それは人柄の良さとともに、プログラマーとしての合理性の現れでした。

(ゲームがお客に)ウケるというのは、お店で何個売れるということじゃないんです。(略)そのことを人におすすめしたくなるくらい好きになったのか、『何だガッカリ』と思って終わってるのか、どっちも1個の売上げなんですけど、それを知るのと知らないのでは次のステップで考えることがぜんぜん違ってくるんですね(「社長が訊く『Wiiの間』)より)

ゲームがウケるかどうかは、新作ゲームやビジネスを先に進めるための大事な手がかり。お客の喜びも、ゲームをクォリティアップする要素の一つとしたわけです。うれしい反応も冷静に分析する合理性は、任天堂の社長に指名された時、それを受けるかどうかの決断についても例外ではありませんでした。

岩田 自分がやるのがいちばん合理的だと思ったんでしょうね。少なくともその瞬間に迷いはなくて、自分が立ち向かうのがいちばんましであると。

糸井 プログラマーっぽいですね。

岩田 ええ、プログラマーでしたし、いまも思考はプログラマーです(笑)。(「ほぼ日刊イトイ新聞−星空の下の仕事観」より)

岩田氏が社長に就任した2002年は、ゲームキューブがPS2やXBOXに次いで第三位に甘んじていた、任天堂の据え置きハードどん底の季節。栄光よりも重責がのしかかる大役を引き受けたのは、任天堂復活プログラムの中で自分が必要なコードだと見極めたからでしょう。

この連載も、今回で最終回。惜しむらくは関わりが「晩年」になってしまったゲームや、その理想が込められたソフト+αを通じて、プログラマー・岩田聡の生き方を偲びます。

『ポケモンスタジアム』&『ポケットモンスター金・銀』

『ポケモンスタジアム』はゲームボーイ用『ポケットモンスター赤・緑』などのデータを読み込み、3Dで対戦したり、ポケモン図鑑を管理できるN64用ソフト。『ポケットモンスター金・銀』はポケモンシリーズ本編の2作目。どちらも岩田氏はメインではなくヘルプという立ち位置です。『ポケモン・金銀』をプログラマー4人という少人数で開発していたところ、前作『赤緑』が国内で爆発的にヒットしたから海外でもローカライズして発売したい、しかし人手が足りない......。そこに駆けつけたのがHAL研社長だった岩田氏。ポケモンはゲームフリーク開発で、他社の社長がプログラムの助っ人に来るのはちょっと意味が分かりませんが、岩田氏が当時はクリーチャーズ(ポケモンに深く関わる会社)の役員だった縁で、任天堂グループ全体を考えてのことです。時を同じくして『ポケモンスタジアム』開発もスタート。ゲームボーイ版のポケモンを3Dで戦闘させるため、バトルプログラムのロジック(仕組み)も移植しなければいけない。「赤緑」は仕様書がなかったため、生のプログラムを読み解く必要がありましたが、それはゲームフリークのプログラマー・森本茂樹氏が高級言語を使わず、人間が読めるように作ってないコードでした。岩田氏は「こうすればローカライズできるよ」とゲームフリークと任天堂の間で仲立ち。さらに森本氏が長い時間をかけて作ってきたバトルロジックもすぐ解析し、わずか1週間でN64に移植してしまいました。「あの人はプログラマーなの?社長なの?」とビックリした森本氏らは「金銀」本編の修正までお願いすることに。岩田氏が手がけたグラフィック圧縮ツールのおかげで、前作の2本分はあるボリュームが、決して大きくない「金・銀」のROM容量に収まりました。石原恒和氏(クリーチャーズ代表取締役会長)いわく「社長にしておくにはもったいない」に大いにうなずけるエピソードです。

『大乱闘スマッシュブラザーズDX』

任天堂の人気キャラクターが集まる対戦アクションゲームの二作目にして、岩田氏がプログラマーとしてゲーム開発に関わった最後のタイトル。そもそも岩田氏は、初代のN64用『大乱闘スマッシュブラザーズ』の原型である『対戦格闘ゲーム竜王』を作った一人です(当時はHAL研社長)。桜井政博氏が仕様やデザイン、モデリングやモーションを担当し、岩田氏は平日に『カービィのエアライド』を制作していたために休日にプログラミング。この二人とサウンドクリエイターを含めて、たった3人で完成させました。

さらに家庭用オリジナルの対戦格闘ゲームでヒットの前例があまりなかったため「任天堂キャラクターがバトルロイヤルする」アイディアを選択。宮本茂氏に「マリオを貸してください」というためにマリオやドンキーコング、サムスなどを使えるバージョンを(無断で)作成してプレゼンし、一発でオッケーを獲得。それも土台となるプロトタイプの完成度が高かったからでしょう。

そしてシリーズ二作目の『DX』では、このままだと発売日に間に合わないということで助っ人として参上。山梨のHAL研に行って臨時のデバッグ隊長となり、コードレビュー(テンパっているプログラマーと一緒にコードを読んで「あ、ここがバグ!」と言って直す仕事)やデバッグ、任天堂から送られてくる山ほどのバグリストを担当ごとに仕分けして......という作業を3週間やって、ようやく完成品を送り出しました。当時はすでに、任天堂の経営企画室長だったのに。

それが現役エンジニアとしての有終の美になりました。ゲームセンターCX特別編「社長が課長に訊く」(ニンテンドーeショップで配信)に出演した際、岩田氏は「機会があればもう一度自らゲームを作りたい」としみじみ語っていましたが、実現する日が来なかったのが残念でなりません。

『大合奏!バンドブラザーズ』

ニンテンドーDSを使って楽器を演奏したり、みんなで合奏したり、オリジナルの楽曲を作れるソフト。『大乱闘!スマッシュブラザーズDX』がエンジニアとして最後の仕事になると約束したな。あれはウソだ−−とは言ってませんが、結果的にそうなったゲームです。

元々バンブラ(略称)の企画はゲームボーイカラー時代にスタートしたもの。より音質の良いゲームボーイアドバンスに乗り換えましたが「合奏」する人数分だけソフトが必要なことがネックとなり、いったん開発が中止されました。

しかし2004年の初め、本作に注目していた岩田氏が、DSのワイヤレス通信機能を使えば1本のソフトで合奏できるということで、急きょプロジェクトチームを再結成。ただ、すでに長期間かかっていたプロジェクトだったため「DSと同時発売できなければチーム解散」という厳しい条件を課すことに。

開発期間がほとんどない中、開発室のドアがバーン!と開いて岩田氏が乗り込み「作曲モードを入れて欲しい」と直々にリクエスト。しかし、スタッフが作った試作品も「こんなんじゃダメ」......と言うだけでなく、自ら仕様書を書いた岩田氏。任天堂の社長になってから、唯一書いた仕様書だったとか。

岩田氏と作曲ツールは、1983年にHAL研から発売されたPC用サウンドボード&ソフトGSX-8800以来の付き合いです。オリジナル曲を公表するバンブラ職人の盛り上がりは後のボカロブームの走りでもあり、岩田氏にとっては80年代のPSG(いわゆるピコピコ音を出すチップ。厳密にはファミコン音源は別もの)ブームの子孫に見えたのかもしれません。

番外編:『Wii』

累計販売台数は1億台を超え、ニンテンドーDSとともに任天堂の営業利益を約4倍(岩田氏社長就任の2002年〜2008年に1,191億円から4872億円)に飛躍させた大ヒット据え置きハード。DSは山内溥元社長の「2画面にしてくれ」という強いリクエストから。3DSの立体視は宮本茂氏がプロデュースした時雨殿(京都・嵐山にある百人一首をテーマにした展示施設)を作ったとき、やはり山内氏の「飛び出さへんのか?」というたっての希望がヒントになったもの。社長として自らが開発を主導した、純度100%のいわっちハードといえるのがWiiです。

ゲームに触ったことがない人でもすぐに使えるWiiリモコンが「ユーザー人口の拡大」という経営者として目指したコンセプトとすれば、もう一つの特徴である「ローパワー・ハイパフォーマンス」はプログラマー岩田聡の人生から導かれた設計思想でした。

発売された2006年当時、据え置きゲームハードはPS3やXBOX360のような冷却ファンをフル回転させるハイパワー&大電力に突進していましたが、Wiiはそんな流れには付き合わずにCPUをローパワーに抑えました。24時間インターネットに繋げられることと、前世代のゲームキューブのソフト資産を継承できるよう基本的なアーキテクチャを変えないためです。

ローパワーのハードから、リモコンなどのアイディアによってハイパフォーマンスを引き出す。それはHAL研時代に岩田氏がプログラマーの一人として参加した「HALNOTE」と共通する姿勢です。

「HALNOTE」とは、1987年に発売された「統合化ソフトウェア」。8ビットPCのMSX2上でワープロや表計算ソフトをマウスによるGUIで操作できる、要するに「MSX2をMacintosh」にしてしまうソフトです。開発のきっかけも、岩田氏がアメリカのコンピュータショップで出会ったMacintoshへの衝撃と敗北感でした。わずか数万円だったMSX2のローパワーで、当時は数十万円〜100万円以上もしたMacのハイパフォーマンスに挑んだわけです。

偉大なエバンジェリストとして比較されやすい岩田氏と、アップル創設者のスティーブ・ジョブズ。岩田氏が最初に買ったマイコンのPET2001も、ジョブズのApple兇高すぎて買えなかったゆえの選択、しかもCPUはどちらもファミコンと同じ6502。そして岩田氏のアップル好きも有名で、個人的にもMacBookを愛用し、糸井重里氏にもMacintoshを薦めたこともあり、ジョブズとの奇妙な縁がありました。

そんなアップル好きがWiiやDSに影響しているかと聞かれ、岩田氏はこう答えています。

「年齢性別経験を問わず楽しめるものをつくる」という任天堂のミッションをこなすときの姿勢と、「機能はシンプルであるほうがいい」とか「わかりやすくあるべきだ」とか、「その場に選択肢が多すぎるとお客さんが戸惑うから単純化したほうがいい」というようなAppleの企業哲学、もっというと、スティーブ・ジョブズという人の価値観には一定の共通項があると思っています。しかし、一方で、明らかに彼らはハイテクの会社で、任天堂はエンターテインメントの会社ですから、やはり、優先度の置き方には大きな違いがある。たとえば私たちは、あと0.5ミリ薄くできることより、丈夫にすることを、間違いなく、躊躇なく選ぶと思いますし、逆に、Appleが、iPodを自転車のカゴの高さから何度も落とすような耐久試験をするべきだとは思いません。(「社長が訊く『ニンテンドーDSi』より)

「シンプルにする」共通の設計思想が世界を変え、「ハイテクとして尖らせる」と「手軽に楽しめる娯楽にする」という方向性の違いが社会を多様に豊かにした。二人の天才の早すぎる死と成し遂げた業績の巨大さへの黙祷を、この連載の結びとさせて頂きます。第1回:追悼・岩田聡氏。ゲームで辿る天才プログラマの軌跡 (1.初期ファミコン編)
第2回:追悼・岩田聡氏。ゲームで辿る天才プログラマの軌跡 (2. 後期HAL研編)第3回:追悼・岩田聡氏。ゲームで辿る天才プログラマの軌跡 (3. 任天堂社長就任前後編