三井不動産社長 菰田正信

写真拡大

■開発用地探しは「鵜匠」の気持ちで

40歳をはさむ1990年代の7年間、横浜支店で用地買収の指揮官を務めた。バブル崩壊期でも、社内で「マンション支店」と呼ばれたほど、次々にマンション開発の実績を上げた拠点だ。

約100人の所帯の大半は、取得した用地の整備から建設、販売までを担う事業担当で、そちらには課長が4人いた。用地担当のほうは自分1人。15人前後の担当者を自由に走らせ、その上に乗って動きをチェックした。2000戸分の用地を取得した年もある。

だが、2度、厳しい時期が訪れた。景気の低迷や金融危機などにより、住宅需要が低下し、売り出し価格に強い下押し圧力がかかった。毎週月曜日の朝、担当者を集め、購入したいと思う物件の状況を報告させていた。普段なら、買収交渉の進捗状況に突っ込みを入れ、取得への助言をする。でも、2度の逆風期には、全く違う指示を出す。「いま、土地を買わなくてもいい」。そう、言い切った。

もちろん、何もしなくていい、という訳ではない。代わりに出した指示が、いったん買うと決めた土地を「値切ってこい」だ。驚く部下もいたが、毎週の朝会で顔を突き合わせて議論を重ねる一心同体の仲だから、みんな黙って頷き、動き出す。

収支が危ういとなれば、売り出し時の宣伝費に至るまで、支出を削り込む。ただ、腕のいい担当者ほど「のりしろ」がない。はじめから念入りに計画をつくってあるから、建築コストを下げるといっても、せいぜい坪単価で5万円。一方で、売値を10万円以上も下げないと売れない。そのままでは、赤字になる。そんな物件が、15、6件まで膨らんだ。

値切り交渉は、あらかじめ地元の不動産業者と買い取る覚書を交わし、業者が用地を取得して、建築許認可を得たうえで持ち込んでくる「専有買い」と呼ぶ取引が多かった。覚書から売買契約まで、長い場合は約1年。その間に、再交渉の余地が生まれる。

設計図を精査して、少しでも戸々の専有面積を増やす。そうすれば、買い取り単価を値切っても、面積の増加である程度は相殺できる。より安い建築業者を紹介し、建築コストも引き下げる。そんな提案を重ねても、市況下落に追いつかない。業者のほうも、市況には通じており、長い付き合いを重視するから、最後は「痛み分け」となる。だから、そういう業者との付き合いを大事にし、ときには北海道でのゴルフにも同行した。そんな自分をみれば、担当者たちも業者回りに力を入れるし、「この課長についていけば、大丈夫」と信頼してくれる。

横浜支店への赴任は、予想外だった。それまで本社の人事部で、査定や異動を担当する筆頭課長代理。そこで、横浜で用地担当の指揮官を7、8年も続けていた先輩の異動先探しに参加したが、後任がみつからない。発令2週間前、辞令書を書いていた部屋に「決まったから、どうぞ」と言われて入ると、自分の名前があった。上司の課長は「要は、ほかにいなかった」と言うだけだった。

朝会では、リストに載せた有望な50件の状況を質した後、担当者が新規に持ち込んだ100件近くも吟味する。結局、ほとんどが買収までいかないが、「鵜匠」のような立場としては、ともかく15羽の「鵜」が獲物をくわえてこなければ、仕事にならない。だから、全部の話を聞く。支店長や本社につなぐ物件では、部下の代わりに、うまく説得した。

一心同体と言っても、甘いわけではない。実は、よく担当者を叱った。とくに売買契約に遅れてきたら、その場で怒りを爆発させ、「相手もいるから後で」とはしない。怒りが和らいで、怒られた人間の身にならないからで、すぐに「きみがやったことは、用地マンとして失格だ」とわからせる。そんなことで、横を向いてしまう部下は、いなかった。

「君者舟也、庶人者水也」(君は舟なり、庶人は水也)――君主と人民の関係を舟と水に喩えた言葉で、中国の古典『荀子』にある。舟の安全は水の安定次第で、一体感を持って動かねばいけない。同様に、君主が安泰を保つには、人民に信頼され、ともに動き、支えられることが大事だと説く。部下たちを遠慮なく叱りながらも、常に一体感を大切にし、ともに動く菰田流は、この教えと重なる。

■いまでも忘れない目先の採用増論

1954年6月、東京・田園調布で生まれる。両親と姉、弟の5人家族だったが、会社の社長をしていた父が小学3年のときに亡くなった。中学でバスケットボールを始め、東京教育大附属高校(現・筑波大附属高校)でも続ける。東大時代はやめたが、出身高校の女子チームのコーチを務めた。

就職を控えて会社訪問に回っていたとき、霞が関や新宿の高層ビルを核にした新しい街を目にして「こういう街づくりに関係する仕事もいいな」と思い、三井不動産を選んだ。78年4月に入社。ビルディング事業部の計画課に配属され、土地を購入してビルなどを建てる部署で、用地班に入る。満6年で福岡支店へ転勤し、大規模宅地用地の買収や一戸建て住宅の分譲を経験する。

88年4月、本社人事部へ。まず2年間、採用を担当した。バブルの膨張期で、どの企業も大量に採用していた。三井不動産も、各部門から「人不足が、成長の制約になっている」「物件はいくらでもあるのに、人事が採らないから機会損失をしている」との声があふれ、91年春の入社組には「100人採れ」の社長命令が出た。

しかし、採用すれば、定年まで約40年。「こんな状態が、40年も続くわけがない」と考え、67人に抑えた。それでも過去最高の数だったが、社内からは「もっと増やせ」の圧力が続く。ところが、バブルが崩壊すると、「何で60人も採ったのだ」と言い出した。いまでも忘れない出来事で、企業経営には中長期的な視点が欠かせない、との思いを強めた。

その思いは、横浜支店へ転じた後、99年4月に本社で経営戦略を担う業務企画室長になったときに、いちだんと深めていく。用地買収から販売までを担う開発現場で、部下たちを指導して「庶人者水也」を固めていくことしか考えていなかったので、頭が真っ白になった異動だ。だが、次号で触れるが、その任を6年間務めるなかで、いま社長として推進している路線の大半が固まっていく。

2011年6月、社長に就任。6年間の中期経営計画ができていたが、東日本大震災のために発表を延期した。電力の確保や人口減少など、日本全体にとって、また不動産業にとって最重要とも言える課題も含めて洗い直し、翌春に「イノベーション2017 ステージI」として発表する。この5月、2017年までの「ステージII」を打ち出した。国内外の変化を想定し、10年後に目指すべき会社の姿を、前面に打ち出した。「保有するから活用するへ」という不動産業の中長期的な変貌が、その核となっている。

いまも、部下の開発物件の説明が、自分が描く路線を反映していないと、その場で怒る。「あれだけ言ったのに、全く変わっていない」。萎縮せずにやり直す部下との「舟と水」の関係は、健在だ。

----------

三井不動産社長 菰田正信(こもだ・まさのぶ)
1954年、東京都生まれ。78年東京大学法学部卒業、同社入社。2003年経営企画部長、05年執行役員、06年三井不動産レジデンシャル取締役常務執行役員、08年三井不動産常務執行役員、09年常務取締役、10年専務取締役。11年より現職。

----------

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)