今夜金曜ロードSHOW「火垂るの墓」節子を殺した真犯人は誰なのか

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火垂るの墓』は節子を死なせた犯人を探す倒叙ミステリーだ!


夏の恒例行事、『火垂るの墓』の日本テレビ系列での放送が今年もやってきました。今回は終戦記念日前日に当たる8月14日。野坂昭如氏が自らの戦争体験を元にした小説が原作だけに、これ以上ふさわしい日にちはないでしょう。


公開当時は、宮崎駿監督の『となりのトトロ』と同時上映になったため、トラウマ力も跳ね上がりました。トトロや猫バスに夢中になった後、全身ヤケドで包帯ぐるぐる巻き、ウジの湧いた母親を遺体の山に放り込む光景を見せられたお子様は、心に素敵なサムシングが残ったかもしれません。
そういうトラウマ語りを始めてから、今年で28年目。そろそろ違った見方をしませんか?
冒頭であっけない死を遂げる、主人公で戦災孤児の清太。その霊は時間をさかのぼり、妹の節子が享年4歳で死ぬまでの時間を繰り返します。
初めに結末が明かされ、「どうしてそうなったか」を追っていくーーこれは最初に犯人を明かしてから、刑事が真相を突き止める『刑事コロンボ』のような倒叙ミステリーと同じ構造です。
火垂るの墓』は、こう言い換えられるのではないでしょうか。「誰が節子を死なせたのか?」事件であると。

被疑者その一:西宮の叔母さん


実際、まいど『火垂るの墓』の放映直後にネットで盛り上がるのが「節子を死なせた真犯人探し」です。直接の原因は栄養失調として、なぜ、誰のせいでそうなったのか。
 初めて見たビギナーが真っ先に指差すのは、兄妹二人を引き取った西宮の叔母さんでしょう。
清太が持ってきた食糧を取り上げ、母の形見である着物と物々交換でもらったコメもピンハネ。自分の娘や下宿人にはおにぎりを持たせるのに兄妹には水のような雑炊だけ、清太が家を出ていくときも「せっちゃん(節子)サイナラ」のひとこと。お前かー!
さらに二回目を見ると、印象がガラリと変わるはず。おばさんは未亡人で、下宿人を住ませてるのも家計の助けにするため。清太は地元の学校に誘われても行こうとせず、防火活動(空襲による火災を消すため)もサボりも、コメなどの配給の対価になる働きもまるでなし。叔母さんのピンハネも「養育費」や「家賃」と捉えれば頷けます。
 アニメ版が恐ろしいのは、原作小説にあった叔母のイジメが削除され、まっとうな正論しか残っていないこと。清太が叔母との食卓を拒んで自炊を始めた時に「まるであてつけやん」というのは単なる事実で、陰口ではなく大声で聞こえるように言ってるのは「謝ったら許す」サインでもあります。叔母さんはシロだ!

「不誠実な語り手」である清太


次に疑惑の目を向けられるのが、節子をお兄ちゃんらしく世話する清太です。海軍軍人の父を持ち、戦火が激しくなる前の海水浴で「カルピスも冷えてるよ」と優しい母に呼ばれた家族旅行の思い出。今の基準では平均的な庶民像にすぎず、現代の僕らが感情移入しやすい少年です。モノが豊かにあって当たり前、可愛い妹との時間が大事といった価値観も近い。
そうした「現代人と同じ目線」がくせ者です。互いに協力しつつ監視しあう隣組の不自由さ、オルガンで『鯉のぼり』を弾いた程度で小言を言われる鬱陶しさ。それは「そういう時代」だったからで、特に兄妹二人がだけに厳しいわけではなかった。
ことさら残酷に見えるのは、清太が推理小説でいう「不誠実な語り手」だからでしょう。隣組だって「電話がある家は金持ち」という時代の連絡網であり、社会福祉が整備されてない中での相互扶助という面もあり、一応の合理性があった。それを無視する清太の行いは、「社会は無価値だ」と言ってるのに等しい。妹が大事なあまり、世間のルールを不当にディスっているわけです。

清太の甘さを暴く高畑監督のリアリズム


高畑監督のスゴさは、清太も当時の社会も、平等に描いていること。ドラマの中心にいる兄妹の生活と同じ密度で、周囲の人々や街に関する情報量を詰め込んでいます。
背景美術のこだわりも半端じゃなく、土手に生えてる草も一本一本描かれ、種類が特定できてしまうほど。空襲シーンでB29がどちらからやって来るかを調べあげてから、清太の顔の向きを決める(『宮崎駿が企てた「火垂るの墓」クーデター計画』より)高畑監督の完璧主義。そりゃあ『かぐや姫の物語』を作るのも、8年かかりますよ!

高畑監督のカメラは「不誠実な語り手」である清太の甘さを容赦なく暴いています。二人が引っ越した池の横穴も(昔は実在)、「ここが台所、こっちが玄関」という節子のはしゃぎ方が逆に痛々しい、害虫が群れて不快そうな水辺のリアリズム。二人の皮膚に広がる疥癬も悪化していき、命のカウントダウンを刻んでいます。
節子も喜ぶ二人きりの自炊、リヤカーに家財道具を積んで横穴に引っ越し。清太が妹のために下した決断の一つ一つが、死へと追いやっていく切なさ。

それは愚かな行いですが、美しくもある。節子の最期の言葉は「兄ちゃん、おおきに」でした。現実世界の肉体は衰弱しつつも、兄がいて「家族」でいられることに心は満たされていた。でも、なけなしのカネで買ってきたのがスイカ(もっとコメが買えるでしょうに)という清太の浮世離れは治らないまま。「真犯人は家族愛」という叙述トリックなのです。

火垂るの墓』は逆『じゃりン子チエ』だ!



(引用)「あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。清太はそれを我慢しない。壕に移り住むことを決断して清太はいいます。『ここやったら誰もけえへんし、節子とふたりだけで好きに出来るよ。』そして無心に”純粋の家庭”を築こうとする。そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう」
(引用ここまで/『アニメージュ』1988年5月号の高畑監督インタビューより)

初見では叔母に疑惑がかかり、しかし真犯人は語り手である清太の家族愛ーーそうした叙述トリックは、高畑監督の意図通りだったようです。
一般に日本のアニメは省略の芸術でもあり、情報量は極力減らされます。が、高畑アニメはあいまいさを許さず、極限まで描き込む。その結果、平面のアニメに何層もの真実が含まれ、色々な解釈ができる。サラッと観ただけではもったいない「推理アニメ」なのです。
そして高畑監督の徹底したリアリズムは、異なる作品同士も地続きにします。代表作の一つであり、明るい作風が正反対の『じゃりン子チエ』も、原作マンガに大阪の下町のリアルを肉付けしたアニメでした。『火垂るの墓』とは同じ昭和という連続性、戦中と戦後という断絶を抱えた作品なのです。
小学生のチエがホルモン屋を一人で切り盛りできるのは究極の絵空事のようです。が、乱暴でろくでなしの父親テツも、売上をちょろまかしたりしながらチエには決してDVしたりしない。お世辞にも治安の良くない土地で(筆者の地元に近いところです)テツの存在が、チンピラに対して抑止力にもなっている。
お祖母さんも同じくホルモン屋を経営していて、チエの店の仕入れもしています。母のヨシ江も初めは別居しているがよく会いに来て……という風に、チエの周りには親身になる大人がたくさんいる。「うちは日本一不幸な少女やねん」を口癖にするチエも不誠実な語り手です。
つまり『火垂るの墓』は逆『じゃりン子チエ』。同じ関西が舞台であり、戦中・戦後における「大人のあり方」の違いが子供の命運を分けたわけです。

一期一会のファンタスティックを提供する宮崎駿アニメに対して、見るたびに、他の作品と関連付けるたびに、新たな考察が生まれる高畑アニメ。その都度「犯人」も変わる『火垂るの墓』は、極上の推理ものとしてオススメなのです。
(多根清史)