いえだ・しょうこ  作家。1991年、『私を抱いて そしてキスして』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2007年、高野山大学で僧侶資格取得(法名「紫永」)。著書に『四国八十八カ所つなぎ遍路』など。

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最近は「お墓はいらない」など過激ともいえる意見が出てくるようになった。お墓とどう付き合えばいいのか。ダイヤモンドQ編集部では、作家であり、僧侶でもある家田荘子さんにお墓とどう付き合えばいいのかを聞いた。遺骨の軽視は体の軽視であり、お墓を敬うことで、故人や先人を尊敬する場と文化を残したいという。 

 私たちには魂があって、生まれてくるときに体という器を借りて生まれてくる。その器と一生一緒に過ごすわけです。亡くなって火葬にしたら骨だけになるけれど、それをお墓に納めないということは、故人が何十年も使ってきた器を大切にしないということ。酷だなぁと思います。

 お墓がないということは、故人をお参りする場所がないということでもあります。つらくなったときにお墓にお参りするという人がよくいます。生きている人と亡くなった人がコミュニケーションを取れる場というのは必要ですよ。故人の孫がおじいちゃんに会いにいきたいと言いだしたとき、その場所がないというのもかわいそうに思えます。

 亡き人のお墓に向かって手を合わせる。合掌しているときは、一番心が澄んで、一番心が穏やかなときですが、お墓だけでなく仏壇も減っているとか。合掌の場がなくなるのはよくないし、手を合わせる姿を後世に伝えていくこともできなくなる。祖先を敬い先人を大切にする文化まで途絶えてしまいそうです。

 自分は歴史をつないできた一人、人をつなげてきた一人であって、今後もさらにつなげていく。そういう役割があってこの世にいる。要らない人などいません。そういう人間が生きた証しとしてお墓があってもいいのではないですか。

 子供に迷惑を掛けたくないからと墓を敬遠する親もいます。それなら、自分で生前にお墓とご供養の準備を済ませておけばいい。親の準備がない方が、子供には迷惑になります。

 お墓離れがいわれるのは、命を大切にする人が減ってきたからなのかもしれません。亡くなった人も大切にしない。人を、命を大切に思わせるためには何か形が必要だと思うんです。

 問題は僧侶や業者の側にもあります。お経が上手に読めなかったり、金もうけ主義であったり。そういうところで無理にお墓を持つことはありません。お墓のことはもっと自由に考えていい。お墓を移すこともできますし、きちんと拝んでもらえるところなら集合墓でもいいでしょう。

 自身のお墓については、まだきちんとは考えていません。愛知の実家の墓はいとこが継承してくれそうで、よかったと思っていますが、さて自分はどうしましょうか。

 夫の実家のお墓には入らなくてもいいと言われているので、どこか買いたいとは思っています。都会では難しいでしょうが、人に来てもらえる範囲にあって、僧侶がいて行き届いた墓守をしてもらえるところが理想です。私には霊能力があって、お墓に行くと「お参りも読経もなくて寂しい」などと故人の苦情が聞こえることもありますから。

 私が僧籍を取った理由には、駆け込み寺をつくりたいという考えもあります。実現するのなら、そこのお墓に入ることになりますかね。(談)