目標としていた幕内在位100場所には、あとひと場所、届かなかった――。モンゴル力士の先駆者であり、「角界のレジェンド」とも称された旭天鵬(40歳)が、先の大相撲名古屋場所(7月場所)を最後に現役生活の幕を閉じた。

 名古屋場所では当初、新大関の照ノ富士に注目が集まっていた。しかし、場所の途中から、旭天鵬の動向が注視されるようになった。前頭11枚目で臨んだ同場所、かねてから「幕内から落ちたら、現役を引退する」と語っていた旭天鵬は、初日から4連敗を喫するなど負けが先行し、その現実味が増してきたからだ。

 そして迎えた千秋楽、旭天鵬は栃ノ心に敗れて3勝12敗と大きく負け越し。続く秋場所(9月場所)での十両への陥落は決定的となった。ただその日は、旭天鵬は最後まで「引退」のふた文字を口にすることなく、通算35回目の優勝を飾った横綱・白鵬の優勝パレードの旗手を務めた。

 大役を終えると、旭天鵬は所属する友綱部屋の千秋楽打ち上げパーティーが行なわれている会場に向かった。会場には、サプライズで名古屋入りしていた、夫人と3人の子どもたちが待っていた。その姿をとらえた旭天鵬は、すかさず駆け寄っていって、子どもたちを抱きしめた。その瞬間、ずっとこらえていた涙が、ドッとあふれ出した。

「涙って、これほど止まらないものだとは思っていなかったよ(笑)」

 あふれる涙を拭いながら、旭天鵬は柔和な笑みを見せた。自らの中では「引退」という決断を下し、さまざまな重圧が解けてホッとしたような、それでいてやり切った感のある、優しくさっぱりとした表情だった。

 遡(さかのぼ)れば、3年前の2012年夏場所(5月場所)で、37歳8カ月での幕内初優勝という快挙を遂げて以降、常に「引退」という文字が目前にチラついていた。それでも、優勝した当時3歳だった長女、生後10カ月だった長男の成長をエネルギーにして、日々の稽古を黙々とこなし、幕内の地位を保ってきた。

 おかげで昨年9月には、60年ぶりの40歳の幕内力士誕生と、旭天鵬は再び脚光を浴びた。さらに今年の夏場所には、魁皇の記録(1444回)を抜いて幕内最多出場記録を更新した(最終的には通算1470回)。そして、もし幕内で秋場所(9月場所)を迎えていれば、幕内在位100場所、その初日には41歳の幕内力士誕生という偉業も成し遂げられ、"レジェンド"への関心は一層高まったはずだが、それは夢に終わった。

 千秋楽の翌日、気持ちの整理がついた旭天鵬は「現役引退」を公に表明した。

「今は、穏やかで晴れやかな気持ちです。故郷のモンゴルでテレビ中継されるのは幕内だけ。だから、幕内力士であること、そこにこだわりました」

 会見を終えると、会見場に訪れた記者ひとりひとりと握手を交わした旭天鵬。誰に対しても明るく、優しさをもって接する彼らしい光景だった。

 モンゴル人力士の第一期生として、旭天鵬が初土俵を踏んだのは、1992年の春場所(3月場所)のこと。モンゴル国内で行なわれた相撲トーナメント大会で好成績を残した旭鷲山ら6人とともに日本にやってきた。だが、旭天鵬は初土俵から数カ月後の8月、日本での過酷な力士生活に嫌気が差して、モンゴルに帰国してしまった。

 旭天鵬は、もはや相撲に関わる気はなかった。モンゴルで新たな道を模索していたが、翌9月、帰国したばかりの旭天鵬のもとに、当時の師匠である大島親方(元大関・旭國)がわざわざ説得に訪れた。その大島親方の懸命な誘いを受けて、旭天鵬はもう一度、相撲の道を歩んでいくことを決めた。

 それからは、懸命に稽古を重ねて、1996年春場所には十両に昇進した。メディアの注目は、旭天鵬より1年早く十両に昇進し、派手な技を繰り出す旭鷲山(1996年秋場所に入幕)に集中していたものの、旭天鵬も190cmという長身と、長い手足を生かして躍動。相手を右四つに組み止めて寄るという、オーソドックスなスタイルながら、安定感のある相撲を見せて、1999年夏場所には新入幕を果たした。

 幕内力士となった旭鷲山、旭天鵬の活躍ぶりは、モンゴルのテレビでもリアルタイムで放送された。そんなふたりに憧れて、その後、モンゴルから日本の相撲界に入門してきたのが、横綱まで上り詰めた、朝青龍、白鵬、日馬富士らである。

 旭天鵬は、同期の旭天山とともに、そうした故郷の後輩たちの面倒をよく見ていた。言葉が通じないもどかしさ、文化の違いによる戸惑い、さらに相撲界という特殊な世界のしきたりに対する不平不満など、後輩たちの苦労や悩みを親身になって聞いていたという。かつて、自らも一度は相撲界から逃げ出したからこそ、苦悩する後輩たちを放っておくことができなかった。

 例えば、相撲界に入門したばかりの朝青龍は、慣れない風習や言葉が通じない環境の中で苛立ちを隠せずにいることが多かった。そこで旭天鵬は、旭天山に軍資金を渡して、朝青龍をモンゴル料理屋に連れて行って話を聞いてあげるよう、手配したりした。巡業中には、モンゴル人力士をみんな集めて、母国語で言いたいことを言えるような場を設けて、飲み明かしたりもしたという。

 そんな旭天鵬の細やかな気配りとフォローがあって、朝青龍は1999年に入門してわずか4年で横綱に昇進。2001年に入門した白鵬も、およそ6年で横綱となって、史上最多優勝を果たすほどの大横綱となった。その後、彼らに追随して横綱となった日馬富士や鶴竜も、旭天鵬の存在なくして、ここまで出世することはなかっただろう。

 そんな4人のモンゴル人横綱は、敬意を込めて、旭天鵬のことを「アニキ」と呼ぶ。もちろん、それは彼ら4人に限ったことではない。今や相撲界に欠くことのできないモンゴル人力士の誰もが、旭天鵬のことを慕い、尊敬している。モンゴル人力士すべての、大事な"兄貴"なのである。

 ゆえに、3年前の涙の初優勝の夜は、モンゴル人力士の全員が、旭天鵬のもとに訪れた。祝杯を交わして、皆が酔いしれた。

 土俵入りにおいて、旭天鵬が露払いを務めている白鵬は、とりわけ旭天鵬に対する敬愛が深い。名古屋場所の際にも、自身のこと以上に旭天鵬のことを気にかけ、「(旭)天鵬関にしかわからない、つらさがあるんでしょう」と、その様子を日々心配していた。

 角界に大きな道筋をつけた、モンゴル人力士にとっての"偉大なるレジェンド"は、土俵を去った。だが、相撲への愛がここで途切れるわけではない。

「相撲とは、自分の人生そのもの。これからも体が続く限り、まわしをつけて若い力士の指導をしますよ」

 日本人、相撲界にとっても、旭天鵬は間違いなく"レジェンド"である。今後は、後進の指導、育成においての活躍が期待される。

武田葉月●文 text by Takeda Hazuki