次なるゲーム市場を占う岩田聡任天堂社長急逝、その功績と任天堂の今後

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任天堂代表取締役、岩田聡氏逝去が与えた衝撃

7月13日、任天堂の代表取締役社長だった岩田聡氏の逝去および異動に関するお知らせ(訃報)のプレスリリースが世界を落胆させました。「7月11日、岩田聡代表取締役社長が胆管腫瘍のため逝去いたしました。ここに生前のご厚誼に感謝し、謹んでお知らせ申しあげます」。異例づくしの社長就任から13年後、55歳の若さでした。

「テクノロジー業界の中で最も尊敬され、最も影響を与えた経営者だ」「Iwataはエンターテイメントの世界を永遠に変えた」「Satoru Iwataは最も優れたCEO」(東洋経済より引用)。この悲報を受け、全国のエンターテイメント業界の関係者やメディアからは、情感あふれるコメントが多数寄せられました。これだけの賛辞はスティーブ・ジョブスが亡くなった2011年10月以来といっても過言ではありません。

株式市場は岩田氏の訃報が伝わった13日の終値19,805円から、14日終値19,735円と下落したものの、7月31日終値は21,810円と持ち直しています。


任天堂はブルーオーシャン戦略を実践する稀有な存在

任天堂は「運を天に任せる」が社名の由来です。思えばこれほど機微に富み、的確に業種を想起させる社名が他にあるでしょうか。そもそも、任天堂は1889年(明治22年)、京都市下京区で創業者の山内房治郎氏が花札の製造を開始。1902年(明治35年)、日本初となるトランプ製造に着手し、1947年(昭和22年)、任天堂の前身の株式会社丸福を設立。2年後、中興の祖となる山内溥氏が社長に就任しました。1959年には、ディズニーキャラクターを絵柄に使ったトランプを開発、賭博の道具からカードゲームを家庭団欒の玩具として広めた第一歩でした。

以降、ファミコン(発売開始1983年)、ゲームボーイ(同1989年)、ニンテンドーDS(同2004年)、Wii(同2006年)といった家庭用ゲーム機においてヒット作を送り出し、2009年にはピークとなる年商1兆円8386億円、営業利益5552億円を計上。世界ナンバーワンのゲーム会社に成長しました。

とはいえ、ここ数期、これまでを上回るヒット商品が出ず、2015年3月期の連結売上高は5497億円と減収ペースは鈍化、4期ぶりに営業黒字化し、底打ち感が表れています。それでも、特筆すべきは依然として自己資本1兆1674億円と自己資本比率86.3%の強固な財務基盤を有するキャッシュリッチ企業に変わりはありません。まさしく他社の後追いをせずに、オリジナリティーに徹するブルーオーシャン戦略を実践する稀有な存在です。


就任時の売上高を3倍にした功績は高く評価されている

そんな中、2002年に山内溥氏の後を引き継いで4代目社長に就任したのが、創業一族ではない入社2年目の岩田聡氏でした。北海道出身、東工大卒、実父は室蘭市長を務めた岩田弘志氏。学卒後にゲームソフト会社へ入社、1992年、破たんした同社を社長就任後、再生させました。山内社長にその経営手腕を買われ、2000年任天堂入社、取締役経営企画室長に就任。2002年、天才プログラマーといわれた42歳の若き社長の誕生でした。

マスコミ嫌いとして知られていた山内前社長から、自らもゲーマーと称し、従業員とも気さくに会話する柔和な経営者と評され、DSやwiiなどのヒットにより、就任時の売上高を3倍にした功績は高く評価されています。


岩田社長亡き後、後継社長はいまだ不在

ただ、直近では売上高は下降線をたどり、2014年3月期まで3期連続の営業赤字を計上するなど、赤字の一因となったスマホゲーム対策の遅れを指摘する声もあります。ゲーム端末に固執するあまり、スマ−トフォンという新たなデバイスの対応が遅きに失したと揶揄する向きもあります。とはいえ、3月には、ディーエヌエーと資本提携を結びスマートフォンゲームを共同開発すると発表したばかりでした。

プロ野球・横浜ベイスターズを持ち、SNS上の課金に長じるディーエヌエーと、米国任天堂が筆頭オーナーであるシアトルマリナーズを持つ任天堂。両社の親和性は非常に高いといえそうです。岩田社長亡き後、後継社長はいまだ不在のままです。岩田社長の置き土産ともいうべきモバイル市場のパイオニアであるディーエヌエーとの業務・資本提携は、新たなゲーム市場のフロントランナーとして岩田社長の目じりを下げることになることでしょう。


【村上 義文:認定事業再生士】


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