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○「水金地火木土天海冥」が「水金地火木土天海」に

「水金地火木土天海冥」。小学生のころ、こんな呪文のような言葉を覚えた人は多いだろう。太陽系の惑星を、太陽から近い順に、その頭の文字を取って並べたものだ。世代によっては、「海」と「冥」が入れ替わった「水金地火木土天冥海」と覚えた人もいるだろう。

この中から「冥」の文字が消えたのは2006年8月のことだった。このとき開催された国際天文学連合(IAU)の総会において、惑星(Planet)の条件が決定され、それに照らすと、冥王星はその条件を満たしていないと見なされたことから、1つ位の低い「準惑星」に分類されたのだ。この決定は大きな波紋を呼び、現在でもまだくすぶり続けている。

そんな地球人の喧騒を尻目に、ただひたすらに冥王星に向けて飛び続けていた探査機があった。冥王星が惑星ではなくなったこの年の1月、地球を旅立った「ニュー・ホライズンズ」だ。

○太陽系第9番惑星を探せ

冥王星が発見されたのは今から85年前の、1930年2月18日のことだった。水星や火星など、地球に近い惑星は紀元前からその存在が知られており、また地球から遠く離れた天王星は18世紀に、その次に遠い海王星も19世紀には発見されていた。

冥王星が、20世紀になってようやく発見された理由は、地球と最も近づくときでさえ43億kmも離れており、なおかつ地球の月よりも小さな天体で、どんなに高性能な望遠鏡で見ても小さな点のようにしか見えないからだった。しかし、海王星よりもさらに外側に未知の惑星があるのではないかということは、19世紀の中ごろから考えられていた。

1846年、天王星の軌道運動を観測していたフランスの天文学者ユルバン・ルヴェリエは、その軌道が計算と合わないことに気が付いた。ルヴェリエはそこから、天王星の外側に未知の星があり、それが軌道運動に影響を与えているのではと考えた。そしてルヴェリエの計算結果をもとに、ドイツの天文学者ヨハン・ガレが1846年9月23日に新しい惑星を発見し、それは後に海王星と名付けられた。

ところが、海王星の影響を考慮しても天王星の軌道運動は計算と合わなかった。そればかりか、海王星の軌道運動もまた計算と合わないことがわかった。そこから海王星のさらに外側にも惑星があるのではと考えられたのである。

世界中の天文学者は、こぞってこの未知の太陽系第9番惑星の探索を始めた。しかし約50年間、その試みはほとんど空振りに終わった。

○冥王星の発見

1894年、米国の天文学者パーシヴァル・ローウェルは、私財を投じてローウェル天文台を建設した。彼は大富豪でもあったのだ。そして1906年、彼が「惑星X」と名付けた太陽系第9番惑星の、大掛かりな探索プロジェクトが始まった。

しかしめぼしい発見がないまま、ローウェルは1916年にこの世を去る。その後、彼が大富豪であったことが災いし、遺産を巡って長い裁判が続いた。ローウェル天文台もその遺産の中に含まれていたことから、惑星Xの探索は10年にもわたって中断されることになった。

1925年になり、ローウェル天文台に新しく13インチの広域観測用の天体望遠鏡が設置された。これでより惑星Xの探索がしやすくなった。そして1929年、当時の天文台長ヴェスト・スライファーは惑星Xの探索を、クライド・トンボーという人物に任せることにした。

当時、トンボーはまだ22歳だった。さらに家計の事情から大学には行けず、自作の天体望遠鏡で観測していたアマチュアの天文学者だった。しかし、彼のつけた観測記録は専門家も驚くほど正確なもので、その能力を買われての抜擢だった。

トンボーらは天体望遠鏡を使い、空のある領域を日にちを空けて写真に撮り続け、その写真をブリンク・コンパレーターという装置を使って見比べることで、位置が変わっている天体がないかを探すという方法で惑星Xの探索を行った。撮影する領域の選定にはローウェルなどが計算した結果が使われた。しかし、空には無数の星がある上に、惑星Xははるか遠くにあるため小さな点にしか見えないことから、それは気の遠くなるような作業だった。

1930年に入り、トンボーはふたご座のある領域を観測していた。同年2月18日、トンボーは1月23日と1月29日に撮影された写真の間で、動いている天体と思われるものを見つけた。その移動量は小さく、海王星の外を回る天体に間違いなかった。1月20日に撮影された写真にも、同じように移動している天体が写っている。さらに別のカメラで撮影した写真にも確かに写っていることが確認できた。

トンボーはさらに確認を行ったのち、1930年3月13日にハーバード大学天文台へと報告され、惑星Xが見つかったことが公表された。

その後、その天体には「Pluto」という名前が与えられた。これは当時11歳だったヴェネチア・バーニーという少女によって提案されたもので、ローマ神話に登場する冥界を司る神の名前だ。太陽系の中で最も遠い星に名付けられる名前としてはうってつけで、また頭のPLという2文字は、パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)の頭文字にも掛かっていた。日本では文学者にして天文民俗学者でもあった野尻抱影によって、「冥王星」という和名が考案された。

冥王星は見つかったが、その大きさは予想よりもはるかに小さく、天王星や海王星の軌道運動に影響を与えているとは考えられなかった。トンボーらはさらに別の、より大きな天体があるのではと考えて探索を続けたが、ついに見つからなかった。

実は、天王星や海王星の軌道運動が計算と合わないという問題は、単に計算ミスだったのだ。当時はまだ天王星や海王星の質量が正確にわかっていたわけではなく、誤った数値をもとに計算していたために、実際の観測との誤差が生まれてしまったのである。トンボーらが、ローウェルなどが残した計算結果をもとに冥王星を発見することに成功したのは、単なる偶然に過ぎなかった。

こうしたことから、冥王星はローウェルが提唱した「惑星X」ではないと結論付けられた。さらにその後、惑星Xという存在があることすら否定されている。

○太陽系第9番惑星が消えた日

冥王星は惑星Xではなかったが、冥王星は太陽系の第9番惑星として君臨し続けた。しかし、どんな姿をした星なのかは長い間誰にもわからなかった。冥王星は地球に最も近づくときでさえ43億kmと非常に遠く、地上にあるどんな望遠鏡を使っても小さな点にしか見えない。1990年に打ち上げられた「ハッブル」宇宙望遠鏡を使っても、表面がまだら模様の、ぼんやりとした姿にしか見えなかった。

そればかりか、こうした冥王星をつぶさに観測しようという努力は、皮肉なことに、冥王星の惑星としての地位を脅かすことになった。

たとえば冥王星の発見直後の時点で、その軌道が大きな楕円形をしており、時期によっては海王星よりも太陽に近づくときがあることがわかった。世代によって「水金地火木土天冥海」と覚えた人と、「水金地火木土天海冥」と覚えた人とがいるのはそのためだ。また、他の惑星が太陽の赤道上にほぼきれいに整列しているのに対して、冥王星だけは17度ほど傾いていることもわかった。このことから、冥王星は惑星と呼ぶにはふさわしくないのでは、とする人もいた。

また、1978年に衛星「カロン」が発見され、その運動などから冥王星の質量と直径が推測されたものの、それは地球の月の約3分の2ほどという非常に小さなものだった。

さらに追い討ちをかけるようなことが起きた。1992年以降になると、ハッブル宇宙望遠鏡をはじめとする観測技術の向上により、冥王星に似た星が次々と発見されることになったのだ。つまり、もし冥王星を惑星とするなら、それら似た星すらも惑星に加えなければならないという事態が生まれることになった。その候補数は50以上にものぼった。

こうした事情から、2006年8月にチェコのプラハで開かれた国際天文学連合(IAU)の総会において、天文学者らによって「太陽系の惑星」の定義が新しく作られることになった。その結果、惑星となる星は、次の3つの定義を満たす必要があるという決議が採択された。

1. 太陽の周りを回っていること
2. 十分大きな質量を持つために自己重力が固体としての力よりも勝る結果、ほぼ球状であること
3. その軌道の周辺で群を抜いて大きく、近くから他の小さな天体を排除していること

冥王星はこのうちの3.の条件に当てはまらず、したがって惑星ではないということになった。

またそれと同時に、1.と2.の条件を満たし、他の天体の衛星でもない天体を「準惑星」と呼ぶことも決議され、冥王星をはじめ、2003年に発見された冥王星によく似た「エリス」や、当時まで最大の小惑星として知られていた「ケレス」は、この準惑星に分類されることになった。さらにその後「マケマケ」と「ハウメア」が登録され、2015年7月現在、準惑星は5つとなっている。

この決定に対しては、とくに米国の天文学者を中心に大きな批判が起きた。というのも、水星から海王星までの惑星は有史以前から知られていたか、あるいは米国以外の天文学者が発見したものばかりで、冥王星は米国人が発見した唯一の惑星として、大きな誇りとなっていた。

そしてさらに間の悪いことに、この決定の約7か月前、冥王星を目指し、NASAの"惑星"探査機「ニュー・ホライズンズ」が打ち上げられていた。

(続く)

(加隈久里矢)