盛りあげよう!東京パラリンピック2020(32)
【ウィルチェアーラグビー三阪洋行選手インタビュー Vol.1】

 ウィルチェアーラグビーの日本代表として、アテネ、北京、ロンドンパラリンピックの3大会に出場してきた三阪洋行選手。現在は、千葉県のチームBLASTに所属し、代表ではアシスタントコーチを務めている。ラグビーの街、東大阪市に生まれ、夢の舞台である花園を目指していた高校時代、練習中に頸椎を損傷した。車椅子生活になって、ひとつめのターニングポイントになったニュージーランド留学についてお話をうかがった。

伊藤数子さん(以下、伊藤):花園ラグビー場のある東大阪市に生まれて、やはりラグビーは身近なスポーツでしたか?

三阪洋行選手(以下、三阪):そうですね。実家が花園から近いので、子どもの頃からお正月には花園からの歓声が聞こえていました。今もお正月に帰省した時は、高校ラグビーを見に行くっていうのが定番になってます。ただ、事故に遭って数年は見に行くのがちょっと怖かったんですよね。自分がケガをした競技でもありますし。

伊藤:また観戦にいけるようになったのはいつごろからですか?

三阪:ケガをしたあとにウィルチェアーラグビーの存在は知っていましたが、ちょっと違うものとして捉えていた部分があったんです。ただ、ニュージーランド留学や、日本代表に選ばれて、誇りを持ってウィルチェアーラグビーに取り組むようになったあたりから、花園でラグビーを見る怖さがなくなりました。

伊藤:ちょっと違うものとして捉えていたというのは?

三阪:練習中の事故で高校3年のときにケガをして、それまで身近に障がいのある人がいなかった僕にとって、"障がい者はイコール大変な人"というイメージでした。そのイメージの人に僕がなったことで、「みんながそう思って僕を見ている」と思っていました。比較的早くウィルチェアーラグビーには出会えていたんですが、正直なところ、スポーツに打ち込むよりも、自分が車椅子で生きていく不安の方が大きかったです。

伊藤:はじめはスポーツどころじゃなかったということでしょうか。

三阪:そうですね。高校も1年遅れで卒業して、当時、障がい者の一般の流れとして、職業訓練校に行って資格をとるんだろうなって思っていたころに、今のウィルチェアーラグビー連盟会長の塩沢さんに「ニュージーランド留学をしてみないか」ってお話をいただいたんです。

伊藤:素晴らしいタイミングで素晴らしいきっかけを塩沢さんは与えてくれたんですね。

三阪:そうですね。ここしかないっていうタイミングでした。でも、不安はやっぱりちょっとあって、親にもすごい反対をされました。

伊藤:親御さんは心配ですよね。

三阪:当然「普通の人でも大変なことなのに、車いすのあなたができるわけない」っていうのも言われました。それでも日本にいて、人に頼り切っている自分がすごく嫌で、それを分かっているのに甘えている自分がさらに嫌で......。そうしたらもう、誰も助けてくれないところに行けば変われるかもしれない、という一種の賭けみたいなところもあったんですよね。調べると絶対不安要素がどこかに書いてあるし、ネットなんかを見ればきっと不安しか出ないと思ったので、リサーチをあまりせずに勢いだけで行きました。

伊藤:滞在先や学校も決めずに行ったんですか?

三阪:はい。最初の1週間だけ塩沢さん夫妻に帯同してもらって、その間に足場を固めようと思っていました。僕としては、現地に行けば何かしら決まるだろうというのが一番の考えで。

伊藤:現地に行ってから不安は出てきませんでしたか?

三阪:最初の1週間はホテル滞在にしたんですが、ホテルに到着して、部屋のカーテンを開けた時に、当たり前ですけど外国人しかいないんです。それを見て初めて、すごいことをしてしまったと、そこで一気に不安が来ましたね。

伊藤:塩沢さんがいらっしゃる間に学校や家は決まったのですか?

三阪:それもすごくタイミングがよかったんです。ホームステイ先は、ラグビー用の車いすを製造している会社の社長のお宅に空きが出て、入れてもらえることになり、学校は、たまたま食事に行ったレストランで働いていた日本人が、自分が通っている語学学校を紹介してくれました。で、車も必要だからといって、中古車を買いに行ったらたまたまディーラーが日本人の方で、安く買えたりしたんです。

伊藤:事前に準備していかなかったからこそ、手に入ったものかもしれないですね。

三阪:本当にそうです。

伊藤:そこからはトントン拍子に?

三阪:実はそうでもないんです。最初の1か月間はやっぱりきつかったですね。言葉が通じないのも、文化の違いもそうですし、練習も。僕は2002年にニュージーランドに行ったんですけど、2004年のアテネパラでニュージーランドが金メダルを取るんです。その主力がほぼいるチームの練習にいきなり交じっていました。僕は別に日本でもまだ全然、代表にも入れないような選手だったので、ついていくのがやっとでした。あとは、自己主張しないと全然相手をしてくれません。話せないから話すのを拒んで部屋に戻ったりを繰り返して、どんどんコミュニケーションを取るのが苦痛になって、必要な時以外は部屋にいるようになりました。

伊藤:まさに引きこもりですね。

三阪:完全にそうです。1カ月が経った時に体調を崩したのもあって、『この1カ月は何をしたかな』と振り返ったんです。4カ月間の留学と決めて、あと3カ月しかないのに、何も変わってないなと思って。何があかんかったんやろうっていろいろ考えて、"できない、怖い"、というだけで、自分から前に出てないなと。伝わらないのは当たり前で来ているんだから、伝えるための努力をしながら一生懸命やろうと思って、気分転換で何かせなあかんなと思った結果が、坊主でした(笑)。

伊藤:坊主?

三阪:はい。次の日に美容室に行きました。

伊藤:そこから何か吹っ切れましたか?

三阪:はい。語学学校とかでもやっぱりしゃべらないと相手してくれなかったですけど、ジェスチャーでもいいから、しつこいぐらいしゃべるようにしました。練習でも、分からんかったら「もう1回やってほしい」と言ったり、練習が終わった後に、「実はこういうのが苦手だからこういう練習もやってくれへんか」と言ってコミュニケーションを取るようにしました。そうするとどんどん伝わって、「今日はヒロがこの練習をしたいと言っているから、ここにフォーカスを当てよう」と言ってくれたり。

伊藤:大きな変化ですね。

三阪:そこからすごく楽しくなりました。努力をしているからこそ前に出る勇気があったというか。英語をとにかく勉強しようと思って、1日10時間ぐらいやることもありました。選手と積極的に練習以外の場でも会ったりしました。

伊藤:なるほど。自分から飛び込んでいくっていうことで、コミュニケーションが取れるようになったというですね。

三阪:そうですね。だから、本当に自分から動き出さないと何も変わらないというのを肌で感じました。

伊藤:では残りの3カ月は。

三阪:伸びしろしかなかったですね。

(つづく)

【プロフィール】
■三阪洋行(みさか ひろゆき)
1981年6月21日生まれ。大阪府出身。ウィルチェアーラグビー元日本代表。現在は千葉のBLASTというチームに所属しプレイする一方、代表ではアシスタントコーチを務めている。パラリンピックは、2004年アテネ、2008年北京、2012年のロンドンと3大会に出場。中学生で健常のラグビーを始めたが、高校3年生の時、練習中の事故から頸椎を損傷し、車いすの生活となった。その後、ウィルチェアーラグビーと出会い、ニュージーランド留学を経て、日本代表入りを果たしている。

■伊藤数子(いとう かずこ)
新潟県出身。NPO法人STANDの代表理事。2020年に向けて始動した「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」では顧問を務めている。2003年、電動車椅子サッカーのインターネット中継を企画、実施。それをきっかけにしてパラスポーツと深く関わるようになった。現在、パラスポーツの競技大会のインターネット中継はもちろん、パラスポーツの楽しみ方や、魅力を伝えるウェブサイト「挑戦者たち」でも編集長として自らの考えや、選手たちの思いを発信している。また、スポーツイベントや体験会を行なうなど、精力的に活動の場を広げ、2012年には「ようこそ、障害者スポーツへ」(廣済堂出版)」を出版した。

文●スポルティーバ text by Sportiva