会田誠公式ブログより

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 現代美術家・会田誠氏の作品が美術館側によって撤去要請が出されたという問題が、いま波紋を呼んでいる。

 今回、撤去要請が出されている作品は、現在、東京都現代美術館で開催中の企画展「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」に出品されている「檄」という作品(制作者は会田氏と妻、息子の3人によるユニット「会田家」)。この作品が、「子どもにふさわしくない」という理由で撤去するように要請が出されたという。また、朝日新聞の報道によれば、そのほかの出品作である映像作品「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」も問題視されているという。

 いったい、「子どもにふさわしくない」作品とはどんなものなのか。筆者は今週日曜の26日に足を運んで鑑賞してみたが、いざ見てみると、「え?」と声が洩れてしまうほど拍子抜けしてしまった。

「檄」は、そのタイトル通り、天井から吊された大きな布に檄文が毛筆で書かれた作品。まず大きく「文部科学省に物申す 会田家」と書かれ、小さな文字でびっしりと文章が綴られている。

 だが、文章をよく読むと、話はどんどん飛躍していく構成で、「もっと教師を増やせ。40人学級に戻すとかふざけんな」と主張しているかと思えば、「もっとゆっくり弁当食わせろ」「かばんが重い」といった話にも流れていく。そして最後は「新国立競技場の問題は全部俺に決めさせろ!! アーチストだから社会常識がない。真面目に子育てにやってないと言」と、途中で文章は終わっているように見えた(追記/読者より「われる」とつづいて終わるとご指摘を受けたので付記します。筆者の観察不足でした)。

 会田氏によれば、この文章は家族の会話のなかで出た意見を書き出したもので、「3人の意見がバラバラである状態もそのまま示しました」というが、それがうまく表現されていると思う。たしかに見た目は物々しいが、人びとが教育に感じているような、さまざまな不満が乱雑につづいていく内容には思わず笑ってしまった。「かばんが重い」なんて、当事者の子どもからすればすなおな声なのだろう。「おとなもこどもも考える」という企画テーマにぴったり合っている作品ではないか。

 一方、「問題視」されているという映像作品のほうは、会田氏が安倍首相を意識しているように見える七三分けのスーツ姿で、国際会議で演説している様子を映し出しており、たしかに「檄」よりは政治色を感じる。

 しかし、これもその中身は「私はチョコレートが好きです。でも鎖国したら、明日からはチョコレートは食べられなくなるでしょう。でもいいんです。我慢すれば!(中略)小豆を甘く煮たもの──アンコだけを食べてゆくことにします」といった言葉を下手な英語で真剣に話すというもので、単純な政治的風刺にとどまらず、おとなにもこどもにもいろんな角度からの解釈を促す、むしろ芸術的な仕掛けを強く感じる作品だった。

 いずれにしても、鑑賞後の感想は「これくらいで撤去しろ!とか問題だ!だとか言われちゃうの?」というもので、正直、かなり驚いた。会田氏が25日に公表したメッセージでも、会田氏は「(「檄」の)文章の内容はある意味「大したことないもの」です。特に穿った意見がそこに書かれているわけではありません」と書いているが、まさにその通りだろう。

 しかも、会田氏は美術館側から「観客からのクレームがあり、東京都庁のしかるべき部署からも要請がきたので、美術館としても協議し、撤去の要請を決定しました」と説明を受けたというが、会田氏が「何件のクレームが来てるんですか?」と尋ねると、その返答は「友の会会員が一名」だったという。

 たったひとりからのクレームで都庁は撤去しろと言い、美術館側もそれを呑んだ──。この事実は、会田氏じゃなくても唖然とするはずだ。さらに、東京都庁のどの部署から撤去要請を言い渡されたのかも、担当者は「それは言えない」と口をつぐんでいるという。

 この原稿を書いている27日現在、作品は撤去されていないが、撤去を要請したという時点でこれは大きな問題だろう。今回の会田家の作品は、繰り返すが、政治的主張など少しも感じられないものである。だが、たとえ政治的主張があったとしても、それで作品展示の有無を決定することは間違っているからだ。

 たとえば、近年の美術館による検閲問題として注目を集めた事例に、2009年4月に沖縄県立美術館で開催された「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄 ─日本国平和憲法第九条下における戦後美術」展がある。この展覧会では、東京とニューヨークでは問題なく展示された、天皇をモチーフにした大浦信行氏のコラージュ作品が沖縄での開催前に検閲に遭い、公開されなかった。じつは大浦氏の作品は86年にも富山近代美術館が購入・展示公開してが、展示が終わってから県会議員が作品を問題視し、富山県は93年に作品の売却と残った図録の焼却処分を決定。こうした背景を理由に、東京での展示の際でも抗議はひとつも起こらなかった作品を沖縄県立美術館の館長は展示拒否したのである。

 このとき展示拒否にかかわった沖縄県ならびに館長、キュレーターは、起こってもいない抗議を恐れたのは明白だ。しかし、抗議が"予想される"作品だからといって拒否することは、表現の自由の下では許される行為ではない。この問題を取り上げた『アート・検閲、そして天皇―「アトミックサンシャイン」in沖縄展が隠蔽したもの』(社会評論社)のなかで評論家の小倉利丸・富山大学教授が論及しているように、〈時の権力者や政治家、有名人の肖像をさまざまな手法で表現の題材にする自由は、言論表現の自由の必須条件〉〈権力者を批判する自由があってこそ言論表現の自由の実質が存在するといえる〉からだ。

 そしていま、会田氏の一件で露呈したのは、政治的主張がなくても、たったひとりが政治性を感じて抗議しただけで撤去要請してしまう「表現の自由」という意識の弱体化だ。現に、この撤去要請騒動について、ネット上では「公共の場にふさわしい作品展示を」などという声も少なからず挙がっている。

 だが、再び小倉氏の言葉を借りれば、〈公共の美術館であればこそ、憲法が義務づけている表現の自由と検閲禁止を明確に遵守すべき〉であって、〈多様な価値観の作品群に接する〉機会が公共で設けられることによってわたしたちは〈自由な討議〉を行うことができる。「公共にふさわしいもの」は、最初から誰かが一方的に決められるようなものではないし、問題があれば自由闊達な議論がきちんと行われなければいけないのだ。

 あらためて言及するまでもないが、過去から現在にいたるまで、ときの権力の手によって芸術作品や作家たちは弾圧や検閲を受けてきた。とくに戦前・戦中は、ナチスドイツが権力の妨げとなる美術作品を「退廃芸術」と呼んで徹底的に糾弾したし、日本においては国家総動員法によって多くの作品・作家が弾圧を受けている。また逆に、国家権力は美術をプロパガンダに利用するため、従軍画家を戦地へ派遣しては戦争画を描かせた。このような歴史を繰り返さないために、「表現の自由」という権利は存在するはずだ。

 どう見ても政治的主張なんてない作品に寄せられたたった一件の抗議に過敏になり、表現をあらためろと言う──。この過剰反応こそ、現在の日本を覆っている空気なのだろう。

 そして、もし、と想像してみる。もし今回、問題となった作品に政治的主張が含まれたものだったら、もっと声の大きな者によって、表現の規制を強化しろなどという意見が吹き荒れていたのではないか、と。......子どもたちのはしゃぐ声が響く日曜の美術館で、そんな想像をして思わず血の気が引いた。

 今回の作品撤去要請は、それくらい大きな問題を孕んでいる。
(田岡 尼)