喉頭がん治療による声帯摘出を公表したつんく♂(公式HPより)

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 アーティストで音楽プロデューサーのつんく♂が、今年4月、母校・近畿大学の入学式でスピーチを行った際、喉頭がん治療による声帯摘出を公表した。その後、食道発声法のトレーニングに励んできたつんく♂が、久しぶりに公の場に登場したのは7月3日。楽天VS日本ハム戦の始球式だった。その奮闘ぶりを知る関係者は「つんく♂は声が出るようになった。かなり小さいので聞き取りにくいものの、声はきちんと出る。少しだけなら会話もできるみたいです」と喜びを語る。

食道入口部を空気で振動させる

 つんく♂の報道で知られるようになった「食道発声法」だが、医学的な見地からどのような方法なのか。足利赤十字病院リハビリテーション科部長の馬場尊先生は、次のように言う。

 「喉頭の悪性腫瘍などの治療のために、喉頭全摘術を行うことがあります。喉頭には声帯という音声の元となる音源を作る器官があるので、喉頭を失うとこの音源(喉頭原音)がなくなり、音声喪失の状態になります。この喉頭原音の代わりになる音源を作ることができれば、音声を獲得することができます。これにはいくつかの方法があり、その一つが食道発声法です」

 食道発声法によって声が出るようになるのは、次のようなメカニズムだ――。喉頭摘出をした患者の気管は、永久気管孔を介して、直接、外に開口している。元にあった喉仏の下のあたりに、親指大ぐらいの孔を開けて、ここから呼吸をする。食道は咽頭に完全につなげるので、気管と食道は完全に分離した状態になる。

 「食道は咽頭と胃とをつなぐ消化管で、通常は飲み物や食べ物を通すのが役割です。普段は食道に空気が入らないように閉ざされていて、食べ物を通すときだけその緊張をゆるめて、それを通過させます。この仕組みを嚥下といいます」

 食道の入り口である「食道入口部」は普段は閉じているが、ここに空気が勢いよく通過すれば振動が生じ、音が発声する。ラッパを吹くときに、唇を閉鎖させてそこから空気を押し出し、「ブー」という音を出すのと同じだ。

 「食道入口部から胃に向かって空気を故意に送り込み、その空気をうまくコントロールして、食道入口部方向へ押し出すと、そこが振動して音が出ます。これによって、喉頭原音の代用になり、音声を作ることができるようになるのです。平たく言えば、精緻にコントロールされたゲップが食道発声法です」

 普通のゲップの持続時間はコンマ何秒だが、食道発声法の熟達者は3秒間以上、持続した音を出すことができる。

 「3秒は短いようですが、実は3秒あればゆっくりでも3から4文節が話せるので、日常生活の基本的な会話は問題なくできるようになります」

食道発声法のメリットは?

 つんく♂の食道発声法は、食道の入口にある粘膜を声帯の代わりにするものだと報道されている。「道具を使うよりも、次の点で優れている」と馬場先生が指摘する。

 「道具を使用する場合は、必ず片手がふさがってしまいます。笛式や電気喉頭は、道具を頸部に手で固定しなければなりません。シャント式は、話すときに気切孔やシャントチューブの開口部を指でふさぐ必要があります。一方、食道発声は、道具を使用しないので、両手は自由に使用できます。また、外観も自然ですね」
 
 では、食道に空気を送り込む方法は、どのようなものか?

 「2つあります。一つは『注入』、もう一つは『吸引』です。注入は口腔内の空気を舌の運動で押し入れる方法です。空気のから呑みに近いかもしれませんが、そうではなくで、ノドをほとんど動かさずに舌の動きのみで空気を押し込む方法です。吸引は横隔膜を使用する方法です。呼吸の吸気時には、胸腔内圧は大気圧よりも低下します。食道は胸郭内にあるので、食道内圧も大気圧より低下します。通常は食道入口部の括約筋が緊張しているので、食道内に空気が入ることがありません。しかし、上手く練習をすると、この陰圧を利用して空気を食道内に送ることができるようになるのです」

 ポイントは大きく吸気したときに、舌で空気を注入(押し込む)ことで、吸引と注入をうまく融合させること。いずれにしても十分な練習が必要になる。

最も難しい音は『ハ』

 実際に食道発声法のリハビリのスケジュールは、次のようになる。

 「通常は術後4週ぐらいです。気管カニューレが抜けたら、食道発声の練習を開始します。まずは呼吸の練習と注入吸引の練習。その後、母音『ア』の発声の練習をします。この『ア』が出せるのに普通で1カ月ぐらいかかります。それから全ての母音の練習、長母音の練習にうつり、強母音、これらの組み合わせ練習をします。母音が自由に出せるようになったら50音に移る。半母音、濁音、半濁音、無声子音、鼻音、弾音、拗音など、徐々に難易度を上げます。発語明瞭度が50%に達したら、2音節以上の練習を開始。ちなみに最も難しい音は『ハ』行です」

 さらに空気を吸引・注入(注気)する時間と空気を出す(吐気)の時間も重要だという。

 「練習初期にでは、注気:吐気=3:1ぐらいで注気の時間が長いのですが、会話練習に移るまでには、1:3ぐらいに注気は短く吐気は長くなっているのが求められます。複数音節の練習は二重母音からはじまり、2音節、3音節、4音節、5音節までできるようにします。これで『こんにちは』『ありがとう』などの挨拶語がようやく可能になります」

 挨拶後ができるようになると、撥音、促音、長音を練習。さらに平易な文(絵本)の朗読練習を行い、さまざまな組み合わせで、発声が安定したら、基礎会話練習に移行する。

 「このあとは、より複雑な内容や情景表現を含んだ文章の朗読、俳句、短歌の朗読を通じて、アクセントの練習や抑揚をつける練習をします。さらに歌唱も取り入れます。通常、簡単な会話が可能になるのは、非常に早い人で1カ月、遅い人で6カ月、普通は3カ月程度です。自主訓練は毎日行いますが、訓練室や教室での練習は1回毎週、1時間ぐらいですね」

 さらに口腔や舌を鍛えるリハビリも、発声法に役に立つという。

 「リハビリではありませんが、歯の状態を整えることも明瞭度を上げるために重要です。食道発声法は音声を再建する手段ですが、その目的はコミュニケーションです。より有効なコミュニケーションがとれるような代償的手段を考えることが大切です」

 ただし長い複雑な文章や、声質を変えた表現には限界がある。

 「身振り、手振り、表情を豊かにすることが大切です。両手が使用できることを最大限に利用したり、女性なら、女性らしい言い回しを工夫するなどで、対処してもらっていますね」

 食道発声法は、諸外国に比べ、日本で広く行われているようだ。各都道府県に喉頭摘出者のボランティア団体があり、喉頭摘出者が食道発声の指導教室(銀鈴会や、阪喉会など)を開催することもある。各団体の献身的な協力で支えられていることも、リハビリを支える大きな力となっている。
(文=夏目かをる)