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県内有数の進学校ながら、強豪私立が集う高校野球の激戦区・神奈川県予選へ第1シードとして臨んだ県立相模原。名門横浜の前に0対3で涙を飲み甲子園への夢は断たれたが、東京大学志望のイケメンエース・宮崎晃亮を中心とする文武両道への挑戦は、ファンの脳裏にさわやかな記憶を残した。

○二飛とともに幕を閉じた最後の夏

野球の神様は、時に残酷なシナリオを用意する。簡単にツーアウトとなった相模原の9回表の攻撃。打席には横浜打線に10安打を浴びながら3失点に抑える、103球の粘投で希望をつないだ宮崎が入る。

初球を豪快に空振りして迎えた2球目。最速146キロの横浜の2年生エース・藤平尚真の直球に再び狙いを定めるも、球威に押されて詰まった打球は力なくセカンドの真上へあがった。

非凡なバッティングセンスを期待され、この夏は5番を務めてきたエースの凡退とともに、1951年の希望ヶ丘以来、県立勢として64年ぶりの神奈川県代表を目指した相模原の挑戦が4回戦で幕を閉じた。

「藤平君の直球は伸びがすごかった。バットを振っても、その上をボールが通過していくことがあった。力の差を感じました」。

最速140キロの直球を内外角にコントロールよく投げ分け、切れ味鋭いスライダーで仕留める。広島東洋カープの前田健太を理想とする宮崎は、東大の文系を志望するイケメンとしても注目を浴びた。

何よりも宮崎の成長の軌跡は、偏差値が65を数える県内有数の進学校でありながら、創部51年目にして初めて第1シードを獲得するなど、強豪校の一角に名前を連ねる存在となった相模原の歩みと一致する。

○入学直後にショートへコンバートされた理由

相模原市立旭中学から入学した2013年当時の宮崎は、思い切り投げても115キロが精いっぱいだった。相模原に赴任して2年目だった佐相(さそう)眞澄監督は、ピッチャー志望の宮崎をショートに転向させる。

決して投手としての可能性に見切りをつけられたわけではない。内野手に必要不可欠なフットワークを覚えることで自然と足腰が鍛えられ、送球を繰り返すことで地肩の強さも磨かれていく。

将来を見越した佐相監督の指導のもとで、三遊間の深い位置から一塁まで届かなかった宮崎の送球は2年生になるとノーバウンドとなり、ベスト8に進出した昨夏はショートのレギュラーをつかんだ。

「相模原に入ってからは本当に厳しい練習の連続だったけど、いまでは自分たちのためだったことがわかります。監督には感謝の思いしかありません。『やればできる』と言われ続けたことが一番の思い出です」。

新チームへの移行とともに、満を持して背番号「1」が託される。昨秋のベスト4。今春の準優勝と創部初の関東大会出場。そして、堂々の第1シードとして臨んだ最後の夏。練習後は学習塾に週5日通うなど、文武両道を実践してきた3年間を振り返りながら、宮崎はその表情に感無量の思いをにじませた。

○「打撃の伝道師」の赴任に導かれた躍進

相模原の躍進は、同市内の公立中学3校を全国大会へ導き、そのうち2校を3位に導いた佐相監督が体育教諭として赴任した2012年度から幕を開ける。指導方針は、56歳になったいまも変わらない。

「打ち勝たなければ、強豪私立には勝てません」。

中学時代の実績から「打撃の伝道師」と呼ばれ、理論や指導ノウハウをまとめたDVDも販売されている佐相監督の赴任を知り、指導を仰ぎたいと望む中学生が必然的に増えてくる。

神奈川県が全県一学区となっていたこともあり、なかには片道2時間近くもかけて通う生徒もいる。一方で推薦制度や野球クラスもないため、入試の前に夢を断たれた中学生の数も決して少なくない。

陸上部などと共用するグラウンドでは、当然ながらフリー打撃を行えない。全体での朝練習は原則禁止。午後7時半には完全下校となるため、7時過ぎには練習を切り上げなければいけない。

公立校ならではのさまざまな制約があるなかで、佐相監督は自身の座右の銘を実践していく。

「環境は人が作る。その環境が人を作る」。

保護者会とOB会の全面的な協力を得ながら、ナイター照明、屋根付きブルペン、速球対策用のピッチングマシン、ぬかるまない土への入れ替えなど、コツコツと環境を整えてきた。

○元甲子園球児のアドバイスで習得した新球

チームの合言葉は「創意工夫」だ。フリー打撃はケージを4つ並べて、バックネットに向かって快音を響かせる。隣接する民家に打球が飛び込むのを防ぐ防御ネットは、保護者が手作りで縫い上げて二重にした。

ティー打撃ではあえて1.2kgの重いバットを用い、次第に軽いバットへ移行して思い切り振らせる。その意図を指揮官は「速い動きで筋肉を刺激して、速いスイングスピードを教え込ませる」と説明する。

グラウンド脇にある緩やかなスロープは、体幹と腕力を鍛える格好の場所となった。18リットルのポリタンクに水を入れて、抱えながら登り降りするメニューが一日置きに課されてきた。

使用エリアが制限されているグラウンドを打撃、守備、体力強化のエリアに分け、65人の部員を3つのグループに分けて効率よくメニューを消化していく。

コーチは2人。いずれも佐相監督の教え子で、仕事や勉強の合間を縫って指導に駆けつける。その一人で、桐光学園が甲子園に初出場したときのエース清原尚志氏は今春、宮崎に新球の習得をアドバイスしている。

「緩いカーブですね。持ち球が速球系だけだったので、緩急をつけたほうがいいと」。

投げるのは一試合で数球。それだけで、ピッチングの幅が大きく広がった。

○監督直伝の『陽転』を実践していく先にあるもの

横浜戦では、強豪私立の左打者との対戦へ向けて習得していた、もうひとつの新球の封印を解いた。

5回裏と8回裏。いずれもシュートで5番打者のタイミングを外し、三振と一塁ゴロ併殺に切って取った。まさに成長途上で高校野球を終えた宮崎は、受験勉強の先に新たな夢を膨らませている。

「シュートを覚え始めたのは春前から。甲子園出場という夢は終わったけど、大学に進めばプロという夢も出てくる。大学でしっかりと体を作って、シュートなどを含めて、技術的にももっと伸ばしていきたい」。

佐相監督が選手たちに授けた言葉に『陽転』がある。宮崎がその意味を説明する。

「ピンチの後には面白いことが起こると思え、という発想です。ピンチをピンチと思えば、体が固まるので」。

初回からピンチの連続だった横浜戦。宮崎を中心とするナインを支えたのは、まさに『陽転』の二文字だった。校訓でもある文武両道も、どちらかを困難だと感じれば実践できなかったはずだ。

宮崎をはじめとする3年生は卒業後の新たな道で、悔し涙とともに「甲子園」という夢を託された後輩たちは来春の選抜出場を目指して、骨の髄まで染み込んだ相模原伝統の『陽転』を心のなかで叫びながら未来へ進んでいく。

○筆者プロフィール: 藤江直人(ふじえ なおと)

日本代表やJリーグなどのサッカーをメインとして、各種スポーツを鋭意取材中のフリーランスのノンフィクションライター。1964年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒。スポーツ新聞記者時代は日本リーグ時代からカバーしたサッカーをはじめ、バルセロナ、アトランタの両夏季五輪、米ニューヨーク駐在員としてMLBを中心とするアメリカスポーツを幅広く取材。スポーツ雑誌編集などを経て2007年に独立し、現在に至る。Twitterのアカウントは「@GammoGooGoo」。

(藤江直人)