まだU-18では、実戦経験が減っている選手は早生まれ選手のみの少数派だが、翌年U-19アジア選手権の本選を迎える年になり、世代全体がU-19に上がると、その少数派が一気に多数派に転じてしまう。
 
「政さんの2年目の時、一気に選手たちの出場機会が減ったことで、コンディションが明らかに下がってしまい、その余波をチームがもろに受けてしまったことを目の当たりにした」(内山監督)
 
 この問題は、鈴木監督前時代だけではなく、吉田靖監督時代、布啓一郎監督時代、牧内辰也監督時代にも、まったく同じ現象が起こり、それが結果につながってしまったと言っても過言ではなかった。
 
 話を鈴木前監督時代のU-19日本代表に戻せば、当時のプロメンバーで、常に実戦経験を積めていたのは、当時C大阪の南野拓実(ザルツブルク)のみ。関根貴大は今でこそ浦和の不動のレギュラーだが、当時は試合終盤に投入されるスーパーサブだったために、いざU-19日本代表でスタメン出場すると、後半にプレーの精度が落ちたり、自分が主軸となって周りを動かすプレーに大きな戸惑いを覚えていた。
 
 結果、チームは『南野頼り』となってしまい、ゴールも南野の個人技によるものが多かった。
 
 しかし、『南野頼り』となってしまったチームのなかで、躍動した選手たちもいた。それが、MF井手口陽介(G大阪)と奥川雅也(ザルツブルク)のふたりだ。実は、今回新潟で行なわれたU-17とU-18の合同合宿を実現させたのも、日本協会がその事実に活路を見出そうとしたからだ。
 井手口と奥川のふたりは当時、高校3年生で、いわゆるU-18の選手。実戦経験豊富な彼らが、チームにリズムをもたらした。特に奥川の存在感は際立っていて、そのドリブルは間違いなく日本の武器になっていた。しかし不運にも、奥川はグループリーグ途中で負傷離脱。結果、彼の不在も準々決勝敗退のひとつの要因となってしまった。
 
 当時のことについて、内山監督もこう振り返っている。
「奥川や井手口も、このチーム(昨年のU-19)に連れてくるのが遅くなってしまった。彼らが18歳になった時、僕がU-18日本代表としてロシア遠征に連れて行った。そこで活躍して、(U-19)チームの立ち上げ2年目に、ようやく彼らを送り込むことができた。結局、あのふたりがU-19選手権でポイントとなった。やっぱり世代を通して、全体を見ないといけないし、横ではなく、(年代の)縦のラインをくまなく見ていく環境を、もっと整えないといけない」
 
 そういう思いから、今回の合宿ではU-17、U-18の縦の融合を図るアプローチが積極的に行なわれた。U-17の選手たちがU-18の練習や試合を見て、さらにU-18に参加していたMF佐々木匠(仙台ユース)、FW岩崎悠人(京都橘)の2選手が、そのままU-17として新潟国際ユースに参加。
 
 この効果はてき面で、大会で3試合・4得点と日本を優勝に導く活躍を見せたFW吉平翼(大分U-18)は、「悠人が上でやったことで、スピード感や裏をより貪欲に狙う姿勢を見せていて、すごく刺激になった。自分ももっとやっていかないといけない。ゴールにこだわらないといけないと思った」と、学年ではひとつ下の岩崎に触発された。
 
 こうした刺激が、今後もっと必要になってくるのは間違いない。U-17とはいえ、来年にはU-19日本代表において、重要な戦力とならなければいけない。「カテゴリーが違うから」という言葉で片付けていては、またも過去の二の舞を演じてしまう。
 
「早生まれ、U-18、U-17と全体で攻守のコンセプトを確認できた。今回はプレー、コミュニケーションの精度を高めたいと思っていた。今後、予選でタフに戦えるベースをしっかりと作りたかった。今のチームには、早生まれの選手が5〜6人いる。当然、コンディションの問題が出てくるので、やはり下からの突き上げも必要。今回はU-17も見て、U-16も僕がイタリア遠征に連れて行って見ているし、どんどん活性化させたい」(内山監督)
 
 過去の教訓をしっかりと生かし、改善しようとする動きは確かに生まれている。だからこそ、U-20ワールドカップ出場という結果が欲しい。内山ジャパンに課せられた使命は、年代別代表の強化策に明確な指針を与える意味でも、非常に重要なものとなっている。
 
取材・文:安藤隆人(サッカージャーナリスト)