『甦る炎のストッパー 津田恒美』(堀治喜/学陽書房)
バースに「クレイジー!」と言わしめた男の生き様。

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野球ファンには、忘れられない日付、というものがいくつか存在する。

1988年、川崎球場を舞台に近鉄とロッテが死闘を繰り広げた「10・19」。
1994年、巨人と中日による同率首位同士の最終戦決戦となった「10・8」。

広島カープファンにとっては「7・20」もまた、忘れることができない日付ではないだろうか。
1993年7月20日、「炎のストッパー」こと津田恒美(恒実)が亡くなってから今日で22年となる。

当時まだ15歳で熱心な野球小僧だった筆者にとっても、あの日の記憶は鮮明に残っている。
というのも、93年7月20日は年に一度の祭典・プロ野球オールスター開催日。華やかな舞台を楽しみにテレビを付けた矢先、番組冒頭で津田の訃報が流れたことで空気が一変したからだ。

あれから22年が経ち、いつの間にか津田が亡くなった32歳という年齢を越えていたことにも軽いショックを憶えてしまう。
同時に、実働10年の野球人が、球界にこれほどの足跡を残すことができた、という事実は凄まじい。

そんな津田恒美の人生は、これまでに何度も書籍化され、映像化されている。代表作は津田夫人による『最後のストライク―津田恒美と生きた2年3カ月』やNHKスペシャルを書籍化した『もう一度、投げたかった―炎のストッパー津田恒美最後の闘い』(ともに幻冬舎文庫)だろう。
そして今年、22回目の命日にあわせるように新たに上梓されたのが『甦る炎のストッパー 津田恒美』(堀治喜/学陽書房)だ。

著者の堀治喜は、過去に何冊ものカープ関連本を紡いできた人物であり、その中には、『ダメージ』『天国からきたストッパー!』など、津田をテーマにした本も数多い。そんな「カープ」と「津田恒美」の専門家ともいえる人物が、津田の人生を少年時代にまでさかのぼって関係者に取材を重ね、反芻するように「炎のストッパー」が生まれた背景を洗い出していく。

たとえば、故郷・山口県周南市に顕彰碑を建立する際、その費用として150万円を目標に寄付金を募ったところ、全国から寄せられた額は600万円以上に。その寄付金の余りによって、地元で「津田野球大会」が開催されるようになり、毎年のよう古葉竹識、大野豊、達川光男らカープOBがボランティアで訪れていた。

たとえば、津田の座右の銘であり、代名詞ともいえる「弱気は最大の敵」。この名文句は、津田がまだ南陽工時代、早稲田大学野球部から来ていた臨時コーチ・道方康友による「投手心得」に記されていたという。津田恒実メモリアルスタジアムには、この「弱気は最大の敵」のネームが今も展示されている。

ほかにも、無二の親友・森脇浩司や、背番号14受け継いだ大瀬良大地など、球界関係者が今も折を見て墓参に顔を出している様子なども綴られている。津田恒美という男の生き様と、その生きた証を振り返る上で、改めて知っておきたいエピソードが満載の一冊といえる。

中でも印象深いのは、やはり因縁のライバル・原辰徳との対決シーンだ。
プロに入る以前、大学生の原と社会人時代の津田が対戦していたという本書で初めて知るバックボーン。そして、80年代後半に覇権を争った巨人の「4番」とカープの「抑えのエース」の対決は、比喩ではなく、まさに命を削りながら行われたものだったことを思い出させてくれる。

1986年9月24日の後楽園球場。津田の渾身のストレートを打ち抜くためにフルスイングした原は、その代償として有鉤骨を骨折し、打者生命を縮めてしまう。

そして1991年4月14日の広島市民球場。原辰徳に打たれたレフト前ヒットを最後に、津田の投手生命は終わりを告げる。その日、既に病魔に冒されていた津田が他の打者に投じたストレートは130キロそこそこ。だが、原に投じた現役最後の1球だけは球速144キロを計測していた。

そこからの闘病記については本書や他の津田本に譲りたい。

津田のように愛される野球人は今後もまた生まれるのか? そして、津田と原の対決のように観る側の心まで揺さぶるような名勝負はこれからも見られるのか? カープ勢が躍動したオールスターを終え、プロ野球は今日7月20日から後半戦がスタートする。
(オグマナオト)