新国立競技場HPより

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 ようやく予算見直しの動きが出てきた新国立競技場案だが、ネットでは今も燃え続けている。巨額予算をごり押しした森喜朗元首相やデザイン案を決定した安藤忠雄の責任を追及する声はもちろんだが、一番盛り上がっているのが、ザハ・ハディドがデザインしたあの形状についてのネタだ。

「自転車乗りが被るヘルメット」「醜いプラダのバッグ」という指摘や、国立競技場をルンバやカネゴンの顔に見立てたクソコラが出回り、はては「森喜朗古墳」というハッシュタグまで......。

 しかし、一部の建築ファンの間では、こうしたネタとは別に「今回もまた、あれに似ているんじゃないの」という声が広がっているらしい。

「あれ」というのは、何かというと、ズバリ、女性の性器だ。何を馬鹿なことを言い出すのかとマジメな読者の方はお怒りかもしれないが、この記事の一番上に掲示されている新国立競技場の画像を見ると、縦長の楕円形をしたデザイン、中央に開いた穴......たしかにそんな感じがしなくもない。

 とすると、設計案の目玉となっているキールアーチは小陰唇ということか。2本で1000億円の小陰唇。当初案にあった南側に伸びる空中歩道部分は蟻の戸渡りという気もしてくるし、上部から見ると、陰核のような突起物も見える。

 自分の手を動かすことを厭わない読者はぜひこの新国立競技場の画像にペイントなどでモザイクをかけて見てもいいかもしれない。よりそれらしく見えてくるだろう。

 だが、今回、新国立競技場の設計案が女性器に見えるといわれる最大の理由は、ザハ・ハディドの過去の建築が原因だ。

 その過去の建築とは、ザハ・ハディドがデザインしたカタールの「アル・ワクラ・スタジアム」というものだ。曲線を主体としたデザインは新国立競技場と通じるところがある。

 このスタジアムは2022年のサッカーワールドカップで使用される予定だが、デザインが公開された直後から海外で「女性器に見える」と話題になり、ニュース番組や雑誌などで何度も取り上げられた。

 ザハ・ハディドはカタールの伝統的な「ダウ船」をイメージしてデザインしたと言っているが、ダウ船とは似ても似つかない形なのは見てもらえばわかるだろう。隅田川のアサヒビールビルも、デザイナーは「炎」と言っているが実際はどうみてもうんこであるように、現代建築家の「イメージは○○」という発言は信用できない。

 もっとも、筆者は建築が女性器に似ているからダメと言っているわけではない。有機物をモチーフにするのは、人工物である建築を人間や環境と調和させる一つの手法であるし、女性性器をイメージすることも、それはフランク・ロイド・ライトの言った「中から外へと発展して行く」あるべき建築の姿ともいえなくもない。

 問題はそのことでなく、「今回もまた」というほうにある。ザハ・ハディドがカタールに続いて、東京でも同じような建築物を続けて設計した理由だ。

 新国立競技場の設計コンペを含めた現代建築を取り巻く問題について批判的に論じている『「らしい」建築批判』(飯島洋一/青土社)という本では現代建築の状況をこう分析している。

「つまり一部の世界的な建築家たちについては、いまや彼らの建築的なフォルムだけでなくて、その建築家の持つ名前の威力が、世界市場で巨大なブランド価値になっているのである。
 施主たちはその建築家の建築そのものでなく、その建築家の名前の威力、つまりあの有名な建築家がつくったというブランドを、たとえ高額でもいいから是非とも買い取りたい。施主たちはザハ・ハディドや安藤忠雄やフランク・ゲーリーやレム・コールハースの仕上がりの良い建築を、実は第一義的には求めてはいない。彼らが欲しいのは、たとえばこれは安藤忠雄がデザインした建築だという事実の方だからである」

 こうしたブランド需要にあわせて建築するようになると、周辺環境や予算、利便性よりも建築家が過去に建てた有名な建築と似ているかどうかが重要になってくる。本来建築はその土地の環境や予算などの条件を無視してはいけないものにも関わらず、環境を無視した建築家「らしい」建築が次々と建てられているのが現代建築の問題だというのだ。

 予算を大幅にオーバーするであろうことがわかりきっているザハ案がコンペを通過したことも、修正案にザハ・ハディドが関わっていないことも、ブランド志向が背景にあることを知れば理解しやすいだろう。オリンピック招致の材料にするためには世界的建築家の権威が一番重要であり、名義さえ貰って開催が決定した後はザハ建築らしさの記号である小陰唇アーチさえ残っていればもうデザイナーの意志などどうでもよいのだ。

 そしてザハ・ハディドはピーク・レジャー・クラブという建物の建築コンペで有名になった建築家だ。1983年に行われたこのコンペで、抽象絵画のような提案がたまたま磯崎新の目に止まり一等に選出された。しかしその設計案はあまりにも前衛的すぎ、あまりに複雑すぎて実際に建設されることはなかった。その後1993年まで実際に建築できたデザインは無い。にも関わらず、むしろ「アンビルトの女王」として有名になってしまった。(ちなみにアンビルトは建築界では必ずしも否定的な意味合いではなく、既存の建築に対する批評としての価値をも表す言葉である)

 最初に建築されたザハ・ハディドの建築は四角い板を組み合わせたようなものだったが、次第に有機的な曲線で構成されたものが多くなっていく。インスブルックのケーブルカー駅舎は巨大なアメーバのように見える。建築技術の発展で実現できるようになってからはカーブの女王と呼ばれるようになったほどだ。

 つまりザハ・ハディドは「建てることが不可能な建築」「まがりくねった有機的な曲線で構築された建築」で広く認知されるようになったため、同じような建築を求められ、本人もその需要にあわせて同じようなデザインを発表し続けているというわけだ。

「彼女はまるで自分のポケットの中に、そのようなハディド「らしい」建築の持ち案をあらかじめ用意しているかのようで、どの国のどの都市の設計競技があったとしても、そのポケットから案を一つポンと拾いだして、それをそのままのかたちで、そのコンペに提出する。
 ハディドは与えられた敷地などをよく調べようとしない。なぜ、そうだとわかるのか? 新国立競技場案が当初は敷地の外に大きくはみ出していたのが、その一つの決定的な証拠になり得るからである。これは常識ならあり得ない話である。しかし彼女は当たり前のように、そうした"非常識"をやってのける」(同書より)

 新国立競技場デザインでもコンペ当選時と表彰式で建築の向きを180度向け直しているが、問題はないとザハ・ハディドは語っている。向きを変えた理由はそこに十分な土地がなかったからだというが、ゼロから設計をしているのであれば土地の広さを考えた上でスペースに収まる形を考えるだろう。最初からポケットにあるものを取り出してコンピュータ上で置いているだけだから、レゴブロックを取り外して付け直すような気軽さで建築の向きも変えても悪びれないのだ。

 女性器に似ているからダメだといっているわけではないことがわかっていただけただろうか。その土地の環境や条件、予算について考慮すること無く、過去に受けたデザインラインを手癖で自己模倣したものを提出するだけのような建築家が芸術的でありスター建築家としてもてはやされている建築界に問題があるのだ。

 しかし「そうはいっても、建築家も芸術性より利便性や費用対効果を考えて設計するものではないのか?」と普通は考えるだろう。ところが建築家の思考は常人とは違うらしい。

 建築家が建築を通してやりたいことは何か......それは己の芸術性を評価されることだ。その絶対目標の前では予算や使い手の利便性は無視される。例えば《せんだいメディアテーク》を見てみよう。この建築は仙台市民図書館やギャラリー、イベントスペースなどからなる複合施設だが、建築家・伊東豊雄の代表作品でもある。

 この建築の特徴はランダムに配置された13本の巨大なチューブがうねりながら全体を貫いていることと七層の鉄板、ダブルスキンのガラス壁だ。チューブが全体を支える構造の働きをしており、梁はない。ランダムに配置されたチューブは空間の不均質さを作り出そうという目的で作られている。だが、図書館に空間の不均質さが必要だろうか? 使う上で不便なだけではないのか?

 特殊な構造は使う上で不便なだけでなくコストアップにもつながっている。ガラスは火に弱い素材なので、緊急時の避難階段にはガラスは使用されない。ところがせんだいメディアテークでは避難階段の防火壁としてガラスが使用されている。これはパイロストップという特殊なガラスであり、この施設を建てるにあたって何度も実験が行われた特別製のものである。

 特殊に歪んだチューブを囲むためのガラスもすべてそれぞれ形が違うガラスを用意しなければならない。当然材料費も格段に跳ね上がるし、工芸品のように溶接を繰り返しながら作っていかなければならなかったので人件費も高くつく。すべて特殊な構造のためのコストアップだが、この構造が実際に使う人達の利便性に貢献することはまったくない。すべて伊東豊雄がいちばんやりたかった「空間の流動性」という芸術性のためにかけられたコストである。

 日本建築学会賞など権威のある賞を獲得している若手建築家の石上純也は、建築の安全性を積極的に損なうような建築の数々を発表している。2010年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に出品した「空気のような建築」は直径0.02mmのアラミド繊維と直径0.9mmのカーボンファイバーで作られた建築模型だ。そんな細い建築が成り立つのかと心配になるが、案の定数時間で崩壊してしまった。

 現代建築家にとって建築の利便性・安全性・経済的効率性などは全く考えなくてもいいことらしい。コンセプトや見かけの斬新さだけが求められる業界なのだ。

 しかし、だ。コンセプトや奇抜さを追求することが現代建築のトレンドならばそもそも建築家なんて必要ないのではないか?  実現性を無視した奇抜なCGイラストや、すぐに潰れてしまうような模型が建築だとまかり通っているなら、技術の進歩でどんなデザインも実現できるようになっているわけだから、設計のせの字も知らない芸術家が建築デザインをしたって良いのではないか?

 芸術性やコンセプトを磨くことにおいてはむしろ芸術家のほうが専門だ。もしも建築が芸術なのだとすれば、アーティストが好き勝手に描いた作品を大手ゼネコンの設計部門が実現化することが正しいやり方なのではないか?

 それは新国立競技場も同様かもしれない。安藤忠雄は昨日の会見で、まだザハ・ハディドにこだわっていたが、女性器をモチーフにするなら、たとえば、ろくでなし子にやってもらったらどうだろう。手癖で同じようなデザインを繰り返しているザハなどより、「まんこ」に正面から向き合っているろくでなし子のほうがずっと、オリジナルでアバンギャルドなものができる気がするのだが......。
(東池 誠之)