『ペルリ提督神奈川上陸図』

写真拡大

 エンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716年)というドイツ人がいた。徳川5代将軍綱吉の時代に長崎市・出島のオランダ東インド会社の医師として来日する。1690(元禄3)年のことだった。商館長の随員として江戸にも下り、道中の体験などをまとめた『江戸参府旅行日記』や滞日中の見聞や研究をまとめた『日本誌』の著者として知られている。

 同書はヨーロッパ世界に初めて日本社会の実態を詳細に紹介したものだといわれており、文学者ヴォルテールや哲学者カントなども読んでいた。描写はさまざまな分野にわたっており、日本人の社会生活もユーモアを交えて紹介している。例えば、日本人との交渉では潤滑油として「袖の下(わいろ)」も有効であるなどと記している。

●つくられた「祖先からの法」

 明治以来、江戸時代の日本は鎖国であるといわれてきた。世界との交際をせず、わずかにオランダと中国のみとしか付き合わなかったとされた。ひいては日本人は国際情勢に疎く世界の大勢を知らず、黒船来航(1853年)では驚くばかりだったとも教えられてきた。しかし、最近の歴史教科書では、この「鎖国」という言葉が使われなくなっている。

 幕末に来航したのは、ペリーが初めてではなかった。1792(寛政4)年といえば、改革で有名な松平定信(1759〜1829年)が老中だった頃である。ロシアの女帝エカテリーナ2世は日本と通商関係を持とうとした。その使節アダム・ラックスマンは贈り物と国書を持ち北海道根室に日本人漂流民、大黒屋光大夫(だいこくや・こうだゆう)を連れて現れたのである。

 しかし、定信はこれを拒んだ。国書の受け取りもせず、翌年、次のような内容の「国法書」を与えてラックスマンを追い返した。

(1)通信関係がない国の船は召し捕り、打ち払う国法が昔からある(祖法)。
(2)長崎でしか外国船とは応接しないことになっている。
(3)もともと通信がない国の王とは親書をやりとりしない。
(4)江戸への直行も許さないことになっている。

 松平定信は、徳川8代将軍吉宗の孫にあたる。運命の転変で将軍の身内から陸奥白河藩松平家の養子となった。老中になって辣腕をふるったが、支持者が少なく、その改革も成功したとはいいがたい。

 興味深い定信の著書がある。『宇下人言(うげのひとこと)』である。その中に当時の心境がうかがわれる内容がある。それによれば「国家同士のつきあいは礼と法にある」と考えていたようだ。だから、むやみに敵対したり、無礼な言動があったりしてはならないとしたのだ。「祖先からの法」などもなかった。当時の対外関係のありかたや、幕府の方針をまとめたものをつくった。その権威づけのために祖先から受け継いだ定めがあるとしたのである。

●教科書から消えた「鎖国」

 昭和時代の教科書では、ペリー来航事件について「幕府は、鎖国を理由にこれを断り、沿岸の防備をきびしくした」とされている。しかし、現在の教科書では「通信関係を持つ朝鮮・琉球、通商関係をもつオランダ・中国以外の国とは交渉をしないのが祖法(先祖以来の法)であるとして通商の要請を断った』と書かれており、鎖国という言葉は使われなくなった。

 なぜなら、鎖国という言葉は、オランダ通詞・志筑忠雄(しづき・ただお、1760〜1806年)がケンペルの『日本誌』を1801年に翻訳したときにつくり出した用語であったからである。江戸時代の体制を表す言葉として「鎖国」が盛んに使われるようになったのは、幕末のペリー来航からだった。これが明治維新前後の混乱期に、開国か鎖国かという議論の流行現象の中で、まるで江戸時代初期の日本が鎖国をしていたかのように誤解されるようになった。

 余談だが、現在歴史学の用語は当時の人の実態になるべく沿って使用するようになっている。鎌倉時代の「元寇(げんこう)」も幕末の造語であるらしい。そのため、今の教科書では『モンゴルの襲来』と書かれるようになってきている。
(文=荒木肇/作家)