徳川家康は1616(元和2)年4月17日に75歳で死去

写真拡大

 時に16世紀中頃の室町時代――。1543年、マラッカ銃がポルトガルから種子島に上陸。「油で揚げる」南蛮料理の天ぷら(フィレッテ)を伝えたのは、長崎に赴いたポルトガル人だ。当時、灯火用の油は貴重な資源。大量の油を使う天ぷらは高級品で、庶民にとっては高嶺の花だった。

 徳川様の御代になり菜種油が増産され、天ぷらは庶民の大衆料理になる。江戸っ子たちは、立ち食い屋台に繰り出してはファストフード感覚で一串四文(約30円)の天ぷらを頬ばった。ネタは、江戸湾や近海で獲れたあなご、芝えび、こはだ、するめなど。そばや寿司よりも味覚が濃厚で、腹持ちも良く、高カロリー。天ぷらは、そばや寿司と並ぶ江戸の三味の中でも人気No.1だった。

家康は鯛の天ぷらの食べ過ぎで死んだのか?

 1616(元和2)年4月17日、江戸幕府初代将軍・徳川家康は亡くなる。享年75。死因は何か?

 家康は大阪冬の陣、夏の陣と立て続けに豊臣陣営を攻め、徳川政権の基盤を瞬く間に打ち立てる。その後は、将軍職を息子・秀忠に譲り、駿府城に隠居。1616(元和2)年1月21日、駿府郊外へ鷹狩りに出かけ、狩りの途中で転倒。田中城(藤枝市)で休養をとる。京都の豪商・茶屋家の3代目・茶屋四郎次郎清次が家康を見舞っている。清次の祖父は、家康の決死の伊賀越えに手を貸した茶屋家の初代・茶屋四郎次郎清延だ。

 1582(天正10)年、織田信長が家臣の明智光秀に急襲されて頓死した本能寺の変。その直後、村々に金をバラまきながら、金目当ての落ち武者狩りから家康一行を救ったのが清延だ。その実績が功を奏し、茶屋家は、幕末まで幕府の御用商人のトップに君臨する。家康は、清延の孫・清次の見舞いを大いに喜んだにちがいない。

 家康「近頃、上方で何か面白いものはないか?」
 清次「京阪の辺では鯛を榧(かや)の油で揚げ、その上にニラをすりかけて食べる一品がございます。手前も食しましたが、なかなか美味でございました」

 その時、偶然にも榊原内記清久の使いが鯛二尾と興津鯛三尾を家康に献上していた。清次の話を思い出した家康は「早よう、その鯛を調理せい!」と料理番を急かした。家康が食したのは、鯛を油で揚げ、ニラの醤油だれに漬け込んだ「鯛の南蛮漬け」。家康は「うまい、うまい」と食らいついた。だが、その夜、腹痛と猛烈な下痢に襲われる。その3ヶ月後に永眠した。

 天ぷら食中毒の記録は、秀吉の正室・北政所の甥に当たる木下延俊が著した『慶長日記』にある。家康は、油料理を食べ慣れておらず、消化不良を起こしたのかもしれない。高齢のため、急な過食が死期を早めた可能性はある。ただ、食後3ヶ月の時間の経過から見ると、天ぷらの食べすぎや食中毒は、直接の死因と考えにくい。

最も有力なのは胃がん説

 家康の死の記録は、徳川家の歴史を記した公式文書『徳川実紀』や家康の侍医・片山宗哲が残した『片山家譜』に詳しい。「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きな腫瘤(しこり)は、手で触って確認できるくらい」と書かれている。症状から見て、胃腸の酷使やストレスによる腸カタル、悪性の胃腸病、胃がんなどが疑われる。

 作家の篠田達明氏は、著書『徳川将軍家十五代のカルテ』で、医史学者・服部敏良博士の胃がん説を紹介する。家康は発症前から食欲がなく、体が痩せてきた、侍医が触診でしこりに触れた、発症後3カ月で亡くなった点を指摘する。

 一方、『類聚伝記大日本史』や『武徳年譜』を見ると、「鯛の天麩羅様の料理を食したが、その量をすごしたため胃を傷つけ、家康自身は之を條蟲の故と信じて萬病圓といふ強力の薬を多量に用ひたため更に症状を進ませ、四月十七日遂に七十五歳を一期として永眠」とある。

 條蟲は寄生虫のサナダ虫、萬病圓は万病に効く薬。家康は、激痛やしこりはサナダ虫が原因と自己判断。侍医の診断に耳を貸さず、自前の薬を服用した。一説では、当時は気つけ薬に水銀を使用した銀液丹という薬が病気の治療に使われており、家康が水銀中毒だった可能性もあるという。

 家康が亡くなる1ヶ月前の3月17日、後水尾天皇から家康を太政大臣に任ずる旨の宣命が下る。27日、勅使が駿府に着くやいなや、家康は任官の宣命を拝した後、勧盃の儀を滞りなく執り行い、能楽を催す。その時の家康は、衣冠束帯で少しも姿勢を崩さず、背筋を真っすぐ伸ばしている。とても病中の人とは見えない。だが、何らかの病状は進行していたのかもしれない......。

 200余年の時を経た幕末。勝海舟から天ぷらの美味を教えられ、大の天ぷら好きになったのが15代将軍・徳川慶喜だ。城下のひいきの天ぷら屋に命じて、直径5寸(約15cm)のかき揚げを頻繁に運ばせていたという。天ぷらをかぶりついて腹を痛めた家康。天ぷらに魅入られた慶喜。徳川265年を天ぷらが取りもつ奇縁だ。


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。