Jリーグファーストステージを浦和レッズが制した。16戦して11勝5分。その優勝を伝える時、決まって出てくるフレーズが「無敗優勝」だ。しかもステージ制では史上初。見出しは踊り、テレビのスポーツニュースも、キャスターがその点をしきりに強調した。

 違和感を覚えずにはいられなかった。優勝は間違いなく素晴らしい話。浦和の優勝にいちゃもんをつけようとしているのではない。誰も彼もが、無敗、無敗と騒ぐ姿に、ひっかかるのだ。使うことに酔いしれ、安心する。そのキャッチーな言葉に、それを使っておけば間違いないとばかり安易に飛びつき、それを拠り所に全てを語ろうとする。大相撲の「全勝優勝」を伝えているんじゃあないんだからと言いたくなる。サッカーのコンセプトから外れた騒ぎ方だと言いたくなる。

 引き分けの勝ち点は1。対して勝利は勝ち点3。浦和にはこれまで5つの引き分けがあるので、その5試合に限れば、勝ち点は5。これは2勝3敗(勝ち点6)にも劣る数字だ。つまり、16戦して11勝5分け(勝ち点38)は、13勝3敗(勝ち点39)に、勝ち点で劣る計算になる。

 Jリーグは文字通りリーグ戦。無敗かどうかはさほど大きな問題ではない。勝ち点を競う競技であるにもかかわらず、メディアは浦和の優勝をトーナメント戦に向き合うようなノリで、無敗優勝を語った。

 使いやすい。見出しにしやすい。が、問題の本質からは少々ズレている。そうした言葉が、ある枠を越えて一人歩きするケース。必要以上に世の中に浸透するケース。お決まりのフレーズとして定着するケースがこの頃、増えているように思う。

「決定力不足」はそのいい例だ。それは本当は得点力不足という構造的な問題ではないのか。チャンスの絶対数が不足しているからではないのか。さらに言えば、サッカーそのものが守備的だからではないか。そうした疑いがある場合でさえ、決定力不足と言うフレーズを頓着なく受け入れる。

 これでは問題の本質は浮き彫りにならない。浮き彫りにしたくない人、例えば、監督が敗戦を決定力不足のせいにすることはよくある話。サッカーそのものの問題にすれば、追及の目が監督自身に向けられるからだが、そこで怪しんでみるのがメディアの役割。普通なら間違いなく決められるゴールを、選手が次々と外しているなら問題ないが、さして惜しくないチャンスで、2、3度外したに過ぎないなら、決定力不足とは言えない。保身と見なすべきなのだ。

「精度」も、同様に怪しみたくなるフレーズだ。「もう少し精度を改善していきたい」と言えば、パス、クロス、シュート等々、それは技量の問題になる。解決には長い時間が必要になる。永遠に解決しない場合もある。精度は向上するものではなく、しないもの。それがサッカーの特徴だ。監督が精度を口にしたらお終いだと捉えるべきなのに、巷では改善可能な問題として通っている。それは、監督、メディア、ファンの逃げ込み先になっている。その言葉を用いることで、一安心しようとする。

 一昨年の新語・流行語大賞を獲得した「お・も・て・な・し」も、僕には危うい言葉に聞こえる。おもてなしは、確かに日本に浸透している精神だが、胸を張るレベルにあるかどうか、つまり、他国の人より優れているかどうかとなると不確実だ。

 にもかかわらず、五輪の東京開催が決まるや、それはキャッチーな言葉として一人歩きしていった。日本人は外国人をお迎えする精神に優れた民族だと胸を張る人、まさに自画自賛する人が、滝川クリステルさんのスピーチを機に一気に増えた。

 それは確かな事実なのか。埼スタで行われた先のW杯アジア予選対シンガポール戦後のことだ。試合開始は7時半だったにもかかわらず、スタジアムから徒歩20〜30分の距離にある最寄り駅、浦和美園駅発東京方面の終電は11時半過ぎだった。早すぎると言わざるを得ない。その時、ホームにはまだ人がたくさんいた。乗り遅れた人はいたはずだ。