中学1年の頃から本田は、明確な将来像を持っていた。だからこそ、3年になってユースに昇格できないという事実を伝えられても動じなかった。
 
 ユースに昇格できないことは、三者面談で告げられた。クラブ関係者から「残念だが昇格できない」と伝えられた時、本田によると、「いつもは明るい父親(司)も、そこではなにも言わなかった。『はい、分かりました。ありがとうございました』みたいな感じで終わったんですよね」。
 
 しかし、その帰り道のことだった。
「父から『お前、見返さなくちゃいけないよ』って言われたんです」
 進学先について、本田は帝京高の3年生だった兄・弘幸に相談していた。
「ポゼッションスタイルを志向していて、全国大会にまず確実に出られるチーム。でも、そこまで名門じゃないところがいい。どこかないだろうか」
 
 兄のなかで浮かんだのが、石川県の私立高だった。
「星稜がいいんじゃないか?」
「セイリョウ?」
 
 本田にとって縁もゆかりもない校名に、最初はピンと来なかった。それまでの本命は、G大阪ジュニアユースの先輩から誘われていた四日市中央工高だった。しかし、かねてから「レールの敷かれている環境より、俺のことをまったく知らないところでチャレンジしたい」と語っていた彼は、星稜高に関心を持ち出す。
 
 兄の口から、なぜ星稜高の名前が出たのか。それは星稜高が中心となって開催される「金沢フェスティバル」に、弘幸が帝京高の一員として参加し、そこで人工芝のグラウンドや研修所など、環境の良さを目の当たりにしたからだった。
 
 さっそく彼は父に相談した。本田は周囲から「なぜ石川なんだ」「大阪の高校でやったほうがいい」などと、星稜高行きに反対されていた。だが、父は違った。
 
「お前が行きたいんだったら、そうすればいい。好きにしていい」
 
 本田はこう振り返る。
「父親は俺が自分で考えて決めたことに、反対することは一度もありませんでした」
 
 父の後押しを受け、彼は石川県金沢市に降り立った。そこで待っていたのは、兄の言葉通りの良質な環境と、これまで出会ったことのない、ドンと構えた懐の深い指揮官だった。星稜高監督、河崎護である。
 
「圭佑が中学3年の9月頃、G大阪の担当者から電話で、『ひとりウチの選手を見てくれないか』と言われ、10月の頭に一度、圭佑がここに来たんです。県外からまったく知らない選手が来ることは初めてだったので、どんな風に受け入れていいのかすら分からない状況でした。だから、とりあえず試合で使ってみたんですよ」
 
 河崎は中学3年の彼をレギュラーチームの一員として、四日市中央工高のAチームとの練習試合に出場させたのだ。
 
 そこで本田は圧巻のプレーを見せた。左サイドハーフに入った彼が、コーナーフラッグ付近でふたりのDFに囲まれる。DFを背にしてボールをキープし、逃げ場のない状況になる。これはCKを取るぐらいしかできないな……と誰もが思った瞬間、鋭くワンステップで反転してDFを抜き去り、左足を振り抜いて正確なクロスを上げた。このプレーに、河崎も驚愕した。
 
「軸がまったくぶれず、あの状況からワンステップで局面を打開するとは、どういうセンスをしているんだと思いましたね。中3でありながら凄いなと。あの技術の高さは本当に衝撃でした」(河崎監督)
 ちょうど、新チームの左サイドがウイークポイントだったこともあり、河崎は迷わず本田の受け入れを決めた。ちなみに、その練習試合のあと、河崎が「君、いいキックを持っているね」と伝えると、本田は「あれくらい、いつもできますよ」とさらっと言ってのけたそうだ。河崎は想起する。