日本代表ではコンスタントに結果を残し、主軸の座に近づきつつある柴崎。そのキャリアの出発点は、地元青森の野辺地SSSだった。写真:田中研治

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 雪国が生んだ国内屈指のゲームメーカーは、ただまっすぐに自分の信じる道を歩んできた。常に目標を定め、妥協を許さない信念は、サッカーの「楽しさ」を知った少年時代から変わらない。柴崎岳は、いかなる道をたどり選手として羽ばたいていったのか。彼を中学時代から追い続けてきた記者がレポートする。
(『サッカーダイジェスト』2015年2月12日号より転載)
 
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 冷静沈着な判断、達観したかのような目、相手を翻弄するプレーは、昔から変わらなかった。1992年5月28日。青森県の上北郡野辺地町で柴崎家の三男として生を受けた柴崎岳は、サッカーを始めたその時から別次元の存在感を放っていた。
 
「兄がふたりともサッカーをやっていました。僕自身はあまり興味が無かったのですが、小1の冬くらいに、兄が所属するフットサルチーム(野辺地SSS)の練習に父が連れて行ってくれたんです。その時に小3か小4のゲームに出て、いきなり5、6点決めたんですよ」
 
 初めての試合で大量ゴール――。本人は軽く言うが、小3や小4との対戦で、小1の少年がいきなり大量点を奪って「楽しめた」のは、生まれ持った才能ゆえだろう。
 
「その後も試合に出て、毎試合、点を取りまくりました(笑)。ボールがゴールに飛んでいく感覚が面白くて、それでサッカーを始めましたね。もし、あそこでたくさん点を取っていなかったら、サッカーはやっていなかったかもしれない。面白かったらやるし、面白くなかったら大概のことはやらないですから(笑)」
 
 自分の感覚を大事にする性格も、当時から変わらない。時に頑固と言えるほど、こだわりを持ってキャリアを重ねてきた。そんな柴崎はその後、多くの人に才を磨かれ、育てられていくことになる。
 
「初めて見た時に本当に巧いなと思いました。でも、それ以上に、負けず嫌いな子だなと感じましたよ」
 そう語るのは、野辺地SSSで監督を務めた橋本正克だ。現在、柴崎の後援会代表理事を務める橋本は、柴崎を小3から小6まで指導した人物である。柴崎が育った野辺地町はサッカーよりもスキーが盛んな土地柄で、当時はサッカーの指導者が絶対的に不足していた。そこで白羽の矢が立ったのが、以前にも野辺地SSSで監督を務めていた橋本だった。
 
「指導者が足りていないので、『また小学校でサッカーを教えてほしい』と言われたんです」と古巣に舞い戻ったところに、柴崎がいたのだ。
 
 実は橋本は、先に述べた“柴崎の大量ゴール事件”の現場にも居合わせていた。
「あの時は、岳の兄を指導していて、小さい弟が付いてきたなという印象しかなかった」
 
 それが今度は柴崎自身を指導する立場となり、小3になった彼のプレーを見て驚きを隠せなかったという。
 
「岳については、前任の指導者から『巧い子がいて、どうやって育てたら良いだろう』と相談を受けていたんです。ただ、実際に自分の目で見ると、考え方を覆されましたね。以前にも『この子は県の代表になれたらいいな』という選手はいたけど、岳は『全然違うな。県代表うんぬんの話じゃないな』と。『小3でここまでできるのか』と思いました」
 
 多くの選手を見てきた橋本にとっても、柴崎は別格だった。
「プレースタイルは今と同じで、パスを出すタイミングや精度が、他の子とは全然違った。岳がパスを出してくれるから、周りもどんどん点が取れる感じでした。チームメイトの特長を一瞬のうちに読み取って、その子に合ったパスを出すんです」
 
 まるでピッチを上から見下ろしているかのように周りの選手を活かす柴崎は、まさにダイヤの原石だった。ただ、橋本はその煌く才能を前に指導者として燃える一方で、葛藤も抱いたという。