『「らしい」建築』飯島洋一/青土社

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2020年東京オリンピックの主会場「新国立競技場」建築計画。
費用と工期をめぐって大混乱である。

都も約500億円を出すように言われた舛添要一知事は「現在の法制度では、負担の根拠がない」と反発。
下村文部科学大臣が「全体的な責任者というのがはっきりわからないまま来てしまった」と発言(で、誰が最後まで責任を持ってやるの?)。
そもそも、工事費はいまだに不透明。

そして、建築家の槇文彦らが新たなデザインを提案(新国立競技場、新たなデザイン提案)。
しかも、見直しの提案は、2年前の2013年8月からずっと主張されていた。
「見直すなら今がラストチャンスだ」という言葉は重い。

監修者のザハ・ハディドは「(批判している日本の建築家は)外国人に東京のスタジアムを作ってほしくないんですよ」と批判し、「がっかりしている」と発言(DEZEEN「Zaha Hadid hits back at Tokyo stadium criticism」)

どうして、こんなグズグズの馬鹿馬鹿しい事態になってるのだろうか?

新国立競技場建築計画の根本的な問題点


新国立競技場の設計競技の最優秀賞がザハ・ハディドに決まったのが2012年11月15日。
その九ヶ月後、2013年8月に槇文彦が異議を唱える論文を発表した。
新国立競技場設計の何が問題なのか?
飯島洋一は『「らしい」建築』で、根本的な問題点を指摘する。
審査方法そのものに問題があった、と。

予算に収まらないのは最初から判っていた


“このスタジアムは、最初から一三〇〇億円ではとてもつくれなかった。”
有楽町「東京国際フォーラム」の延床面積が一四万五〇〇〇平方メートルで、一六四七億円の費用がかかっている。
その約二倍の大きさなのに予算は少ない。
にもかかわらず、ハディド案はアクロバットな構造体になっている。
“これが一三〇〇億円の予算をかなり超えないと実現しないのは、このコンペの審査のはじめから、建築の専門家なら誰にでもわかり切っていた話だった”のだ。
飯島は、ダメ押しのようにその根拠をあげる。
NHK総合テレビ『SANAAの冒険』で、審査委員のひとりがこう言っているのだ。
“技術的には可能だろう。ただしコストは知りません。コストはかかるかもしれない”

政治的戦略のコマにされたのか


予算を倍以上オーバーしていいのなら、コンペに出した他の建築家だって違う案を出せただろう。
こうなってくると最大の謎は、「コストに収まらないとわかってる案を何故選んだのか?」である。
飯島は、こう仮定する。
“ハディド案のメイン・アリーナこそが、東京招致のための重大な政治的戦略の一つであった”。
そうすれば、“今回の異様な展開が比較的すんなりと理解できる”。

世界的建築家サハ・ハディドのブランドと、派手な案が、東京五輪招致のプレゼンのために必要だった、と。
それが実現できるか、できないかは、関係なく。

“こういうことが許されるなら、はじめからできない案をできるとし、IOCに一度はプレゼンして、それによって招致だけを決めさせてしまって、それから今度はやはりできませんでした、と言い直して、しかし招致の権利だけはしっかりと獲得する手法”と見られてもしかたないのではないか。

飯島洋一『「らしい」建築』は、「新国立競技場計画設計競技」の問題点を起点とし、「ブランドとしての建築家」「建築は芸術家、誰のための建築か?」へと論考を進める。審査委員長である安藤忠雄を批判的に俎上に載せる。

「まあまあまあ」丸め込み主義ニッポン


6月4日、衆議院憲法審査会で参考人質疑が行われた。
安全保障関連法案について、出席した学識経験者全員が「憲法違反に当たる」という認識を示した(NHK NEWS「憲法審査会 全参考人が「安保関連法案は違憲」」)。
これに対して、「私の責任でもあり、不徳の致すところだ。緊張感の欠如と言わざるをえず、よく注意すれば、未然に防げたはずだ」と佐藤国会対策委員長が発言するのだ(NHK NEWS「自民 参考人選びは政府与党方針踏まえて」)。
未然に防げた?
恐ろしい。
我々の言いなりになる人を選ぶべきだったのに失敗した、ということだろうか。

新国立競技場問題と、「憲法違反」の見解を無視しようとする姿勢。
どちらも同じメッセージを発している。
勝手に決めて、根回しして、OKと言う人だけを集めて、それが全体の意向のように発表して、決して責任者にはならず、進めてしまう。
問題が起こったら、責任者がいないので、「まあまあまあ」で、どうにか丸め込んでしまう。

これはもう民主主義ぢゃないぢゃないか。
人間よ、もう止せ、こんな事は。
(米光一成)