数カ月前のことである――。結果を問わず、錦織圭に印象や思い出に残っている過去の試合をいくつか選んでもらった時、意外な一戦を挙げて、思わず「えっ」と驚いたことがあった。

 2011年の全仏オープン2回戦、セルゲイ・スタコフスキー(ウクライナ)に1−6、6−3、3−6、6−7(3−7)で敗れた一戦だ。当時、スタコフスキーは世界ランキング36位。錦織よりランキングは上であったが、サーブ&ボレーを得意とし、「芝の選手」という印象が強かった。

「勝てる相手だと思っていたんですけれど、この時はほとんど、彼は前に出てこなくて。相手のプレースタイル、(バックハンドの)スライスに対応できなくて、ほぼ何もできずに負けた......。『こういう相手に勝てないんだ』と、心にグッときたことを覚えています」

 選手の心理とは、実に微妙で繊細だ。何百という試合を戦い、その中で錦織はいくつもの勝利も、敗戦も、過去として置き去っているにもかかわらず、記録上はさして目立たないこの一戦が、彼の心には何らかしらの棘(とげ)を残していたのだから。

 今年の全仏オープン準々決勝、ジョー=ウィルフリード・ツォンガ(フランス)戦――。

 この試合を見ながら、「スタコフスキー戦を覚えている」と言った錦織の言葉が思い出された。もちろん、4年前の錦織と今の彼では、比べるべくもないほど実力が上がっている。対戦相手も、グランドスラムで5回のベスト4以上を経験している、強打自慢の真のトッププレーヤーだ。

 そのツォンガが、立ち上がりはいつもとプレーの様子が違った。強打の早いリズムで攻めてくると思われた相手が、バックのスライスを巧みに使いながら、錦織のリズムを崩しに掛かっているように見えたのである。この日は、スタジアムになびく国旗が引きちぎられそうなほどに風が強い。時おり、一陣の風が赤い砂嵐を巻き起こし、選手の視界をさえぎった。

 その強風の中、ツォンガは、「苦手だ」とメディアから常に指摘されてきたバックでは無理に攻めず、丁寧につないできた。あるいは、絶対に決まったと思われた錦織の強打を、フェンスに肩が付きそうなところまで下がって、ダイナミックな動きで拾いまくる。そしてバックサイドに打たれても、錦織のショットが浅くなれば、回り込んでフォアで叩いた。

 「風の中、早く決めなくてはと焦ってしまった」錦織は、徐々に自らミスを重ねていった。一方、サーブが好調なツォンガは、自分が主導権を掌握したと見るや、サービスゲームでは自慢のフォアを存分にふるい、今度は早い段階で勝負を仕掛けてきた。なんとか流れを変えようと、錦織はドロップショットやネットプレーを試みるも、一度狂った歯車は噛み合わず、どこかでミスが出てしまう。

「自分のやろうとしたことが、すべて悪いほうにいってしまった」

 心と身体が別々のベクトルを向き、互いに足をひっぱりあっているかのようだった。錦織が放つストロークは時おり、糸の切れた凧のようにラインを大きく逸れていく。ツォンガの勝利を願うスタジアムのファンは、熱狂的な声援で疾走する地元の英雄の背を押した。

「自分を見失っていた」

 試合後に錦織はそう言い、目を伏せる。

 アウェーのセンターコート、吹き付ける強風、想定外の相手のプレー......。それらが重なりあう中では、今大会ここまで1セットも落としていない世界5位の錦織ですら、このような崩れ方をしてしまう。テニスという競技の恐ろしさを、まざまざと見せつけられたようだった。

 迷走する錦織を救ったのは、あまりに予想外のアクシデントだった。強風にあおられたためか、スタジアム上段に設置されているスコアボード付近の金属板が、客席へと落下したのである。幸い、3人の軽傷者で済んだものの、安全確認のために試合は約40分中断された。

 この間に錦織は、コーチのアドバイスを受け、頭を整理し、戦術にも修正を加えてコートに戻った。

 「圭がコーチのアドバイスを受けて、決意を新たにコートに戻ってきただろうことは、すぐに分かった」

 再開後の印象について、ツォンガはそう試合後に振り返る。ストロークの精度も威力も増した錦織は、ツォンガのバックを攻め、相手のフォアを封じた。第3セットと第4セットを錦織が奪い返してファイナルセットに突入したとき、第5シードが勝者の権利を手中に収めたかに思われた。

 ただ、完全に錦織優勢に思われた第3と第4セットでも、見落としてはいけない箇所があった。錦織は、いずれのセットも唯一のブレークポイントをモノにし、逆に両セットとも3本のブレークポイントをしのいでいる。勝負強さと言ってしまえば、それまでだ。ただ、ツォンガのプレーそのものが崩れていたわけではなかったのだ。

 最終セット、サーブに集中したツォンガは、1本もブレークポイントをくれなかった。逆に2本目のブレークポイントで、ネットにつめる勇気を見せて錦織のミスを誘った。スタジアムを埋める1万4千人のファンは熱狂し、「ジョー」の名を叫ぶ。スタジアムの外でモニター映像を見るファンたちの歓喜の叫びも、実際のプレーに数秒遅れて聞こえてくる。

「(最終セットは)サーブをまったく取れなかった。集中力を上げてきたのは、彼の強さ」

 錦織は素直に、勝者を称えた。

 きっとこの一戦は、錦織の心に小さな棘を残すことになるだろう。「こんなに自分を見失ったのは久しぶりで、ショックな部分もある」とも、試合後に彼は言った。

 経験......と、ひと言で片づけてしまうのは、あまりに安易かもしれない。だが錦織は、悔いの記憶を克服することで、才能だけでは決して到達できない高みまで到った選手だ。同時に、いつまでも敗戦にとらわれている暇も、テニス選手にはない。

 「少し休んで、グラス(芝)に向けていい準備をしていきたいです」

 痛みを経験値に変えて、錦織圭は新たな季節に向かっていく――。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki