「ダウントン・アビー シーズン3 DVD-BOX」NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン

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NHK総合で放映されていた、英国ITV製作の人気連続ドラマ『ダウントン・アビー』第3シーズンが、昨日(2015年5月31日)で完結。
スターチャンネルでは同日25時(6月1日1時)からシーズン4に突入した(スターチャンネルは契約していないので、僕は観ていない)。

日本放映版のシーズン3のラスト2話は、長尺のクリスマススペシャルを前後篇に分割したものである。
最終話の結末はあまりにショッキングだった。
グランサム伯爵家の財政危機を救って、領地の経営改革に乗り出し、妻メアリとのあいだに子ども(しかも男子)をもうけた直後の、順風満帆を絵に描いたようなマシューが、産院を見舞った帰りにオープンカーでトラックと衝突してしまったのだ。
森の地面に横たわり、血まみれで目を見開いたままのマシューのアップ。前シーズンの結末がクリスマスに求婚するという超弩級の大甘な味つけだったのに比べると、スパイシーにもほどがある。
そもそも、マシューが伯爵家長女メアリとの間に「男子」を得たことには重要な意味がある。英国の歴史ドラマや19世紀小説でおなじみの限嗣(げんし)相続(entailment)のシステムに、グランサム伯爵家もまた縛られているのだ。

男子限嗣相続というファクター



『ダウントン・アビー』の舞台は約100年前のイングランド。ヨークシャーにあるグランサム伯爵家の邸宅の名前が、ドラマの題になっている。
シーズン1から2にかけては、長女メアリの当初の婚約者パトリック(父伯爵のいとこの息子)がタイタニック号とともに沈んでしまい、女子しかいない伯爵家の今後がどうなるか? という興味で引っ張ってきた。
シーズン3では遠縁のマシューがメアリと無事結ばれ、伯爵家存続面での興味の重心が財政問題解決と世継ぎの誕生に移っていた。その両方がいわばかなった瞬間に、この惨事である。
限嗣相続というのは、家屋や領地が分散してしまわないように、相続者の条件を厳しく指定する古いシステムで、その方式自体を家庭が勝手に変えるわけにはいかない。いま見るとたいへん窮屈なシステムに見えるが、このシステムを必要とした時代があったことは間違いない。

しかし近代になってもこのやりかたがかなり残っていた。
ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(1813)は貴族の話ではないが、作中のベネット家はやはり男子限嗣相続に縛られていて、そこにきょうだいは女子ばかりだったため、姉妹の結婚が上昇婚となるかどうかが小説の眼目となっていた。
このため、『高慢と偏見』はいわゆる恋愛小説ではなく、シビアで現実的な反恋愛小説(文学史的には「恋愛小説以前」)と見なすことができる。
まして『ダウントン・アビー』シーズン3の背景は、第1次世界大戦終結(1918)のあとの、ほんとうの意味で「20世紀」がはじまった時代だ。
パリでは「狂乱の時代(レザネフォル)」、米国では「ジャズエイジ」、『ダウントン・アビー』シーズン3でも、親戚の跳ねっ返り娘ローズがロンドンのジャズクラブでハジける(昭和的に言うと「フィーバーする」)場面がある。

要はル・コルビュジエの建築雑誌《エスプリヌーヴォー》の時代であり、フィツジェラルドとかヘミングウェイら「失われた世代(ロストジェネレイション)」の時代ということ。
参政権をはじめとする女の権利獲得に注目が集まった女性解放の時代であり、従来の家族制度自体が問い直されていた。次女イーディスが父の反対を押し切ってコラムニストとして自立しようとするのも、いかにもこの時代である。
貴族が新聞・雑誌に文章を発表するのは、18世紀にジャーナリズムが発達して以来見られるようになった現象かもしれない。
しかし貴族の「女性」が政治から日常生活までを含む幅広い題材の文章を、しかも貴族の「コメント」としてではなく、「プロの文筆業者の仕事」として書く、となると、これはやっぱり第1次大戦以降さかんになったことではないだろうか。

使用人階級に起こったことが…の法則



以前エキレビ!で紹介した『エドワーディアンズ 英国貴族の日々』の作者ヴィタ・サックヴィル=ウェストも作庭家として知られ、小説を書くばかりでなく新聞にガーデニングの記事を連載していた。
『ダウントン・アビー』シーズン3の時代は女性解放運動だけでなく、労働運動や急進左翼運動、そして植民地の独立運動が、貴族をますます脅かしていた時代だ。作中では、限嗣相続のしきたりが、伯爵家の個人個人を縛る桎梏でしかない。男兄弟がいなくても養子を取っちゃえばいい谷崎潤一郎の『細雪』の蒔岡(まきおか)家に比べるとかなり深刻なのだ。

先月このエキレビ!で『ダウントン・アビー』について書いたときには、シーズン1からシーズン3までに登場する技法「パラレリズム」について書いた。「ひとり(もしくは複数)の人物が似た構造のできごとを経験する」パターンだ。
『竹取物語』の5人の求婚者がことごとく姫の要求に応えられず失敗していくのはこのパターンであり、『イワンのばか』で3人兄弟の末子だけが成功したり、『舌切り雀』『こぶとり爺さん』で2巡目の欲張り婆さんや意地悪爺さんが失敗したりするのが、いわば逆パラレリズム。
今回、メアリが子どもをもうけた途端に配偶者マシューを事故で失ったとすると、それは同シーズン前半で屋敷のもと運転手であるアイルランド人トム・ブランソンが娘を得たとたんに、身分違いの配偶者である伯爵家三女シビルと死別したのと、まったく同じ運命である。

前回のレヴューで
「使用人階級に起こったことが、そのあと伯爵家で起こる」
というパターンを指摘しておいたのを思い出してほしい。
しかしそのトムも、娘の誕生がきっかけで伯爵家の領地管理者として新たな人生を送っている。労働者階級出身だから、正装のディナーに疲れて、たまにはパブで飯を食いたいわけだが、そうはいっても彼はもはや労働者ではない。
シーズン3終盤で、妻を失ったトムに新入りメイドのエドナが恋を仕掛け、それは一時的に実りそうになるのだが、最終的にエドナの試みは失敗する。トムは身分違いの恋を叶えたが、エドナにはできなかったわけだ。これが逆パラレリズムというヤツだ。欲張り婆さんあつかいして申しわけないが……。

シーズン4にかけて気になるもうひとつのパラレリズムは、伯爵家次女イーディスの男運のなさである。
イーディスと言えば着てる服がいつもかわいい、そしていつも男運が悪い。シーズン1から一貫して、好きになる男にはほかに相手がいるか、さもなくば彼女のもとをすぐに去ってしまう。
シーズン2でのイーディスの男性遍歴リストには領内の農夫ドレイクもいて、妹シビルの身分違いの恋を予告するものとなっていた。パラレリズム!
シーズン3で相思相愛となる相手の編集者グレッグソンがまた既婚者なのだ。イーディスの男運のなさもこれで4回目? 5回目?
しかもグレッグソンの妻は重度の精神病で入院中、夫を認識することすらできず、離婚の意志表示が不可能なため、当時の制度では離婚できないという。これは第1・第2シーズンで従者ベイツの不仲の妻ヴェラが離婚を認めない状況を再現したものだ。
つまりイーディスの不倫は、いまは晴れてベイツの妻となった侍女アンナ──貴族階級も使用人階級も欠点だらけの登場人物のなかで、家政婦長ヒューズと並んで「非の打ちどころのない」人として演出されている例外的キャラ──のかつての苦境を再現しているのだ。ここでもまた
「使用人階級に起こったことが、そのあと伯爵家で起こる」
というパラレリズムを踏襲しているわけだ。

どうなるトーマス・バロウ



シーズン4にかけて気になるもうひとつの展開、それは伯爵家副執事にまで成り上がったトーマス・バロウだ。
女性解放や植民地解放、そしてトム・ブランソンに象徴されるアイルランド問題については触れたけれど、セクシャルマイノリティの解放運動がさかんになるのはもっとあとのことのようだ。
同性愛は当時の英国ではまだご法度、どころか1950年代になっても法的処罰の対象とみなされていたのは、ベネディクト・カンバーバッチがコンピュータの発明者チューリングを演じた映画『イミテーション・ゲーム』でもおなじみ。

『ダウントン・アビー』シーズン3終盤でも、同性愛者であると同時にアイルランド人でもあるオスカー・ワイルドの名がおぞましいものとして語られていた気がする。
従僕ジミーへの恋がかなわず、ジミーから1年にわたって忌避され続けたトーマスが、縁日で暴漢に襲われたジミーの身代わりになってボコられる場面は、仙波清彦師匠の名曲「オレカマ」(俺にかまわず行け)の題名そのものの侠気あふれる場面だ。
性根が腐っているのにどこか抜けてて憎めないこの男が見せた、思いがけぬピュアな一面。
あなたは素直に感動できただろうか?
それとも「ベタすぎ!」とドン引きしただろうか?
そして僕は、スターチャンネルを契約すべきなのだろうか?
(千野帽子)