浜辺陽一郎『名誉毀損裁判』

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「表現の自由」と「プライバシー保護」の2つを天秤にかけたとき、どちらに重みをおくべきかという議論は時空を越えて常に存在してきた。ネット上の掲示板やブログが全盛となった現代社会では、それに伴い名誉毀損という問題が特にクローズアップされている。著者からすれば「名誉毀損訴訟に晒される心配のない安全な批判的表現などは、ほとんど存在しないに等しい」のだという。

 本書は、一般読者向けに犯罪としての名誉毀損裁判を題材にしているのだが、読み進めていくうちに、「果たして、裁判所が名誉毀損を判断できるのだろうか」といった疑問を喚起させられる。さらには、「そもそも、名誉毀損の客観性とは」。こんな問いが脳裏に焼き付いてしまいそうになる。

 名誉毀損となる表現について「一般読者の普通の注意と読み方」という裁判所の判断基準があるのだが、著者は「一般読者」とは誰のことを意味し、「普通の注意と読み方」とはどのような読み方なのか明らかではない、と疑問を呈する。結局、担当した裁判官の主観によって、名誉毀損の是非が決せられるのだ。

 辞書を紐解くと、名誉とは「ほまれあること。名高いこと」とされている。裁判所では「客観的に存在する社会的評価」を指すそうである。ある人物に関する社会的評価など、評価する人によってまちまちであり、その客観性などできようはずもない。

 その「社会的評価の下落」によって名誉毀損が成立するわけだが、著者はこれを客観的な裏付けの乏しい完全なフィクションであって、これを今まで事実の問題であるかのように論じてきたことは大いに疑問だ、と強調している。

 犯人視報道などマスコミが引き起こす名誉毀損が問題化されて久しいが、ネットの登場で一般市民もこの問題が他人事ではなくなった。本書は、名誉毀損という本質を思弁するにも、もしくは、ネット時代の表現の自由を一考するにも、良い道筋を与えてくれる。(平凡社新書、819円)【了】