世紀の一戦とうたわれたフロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオの一戦は、試合後の会場にブーイングが飛び交うなど消化不良な内容となった。これまで絶対的なキャリアを築き上げてきた両者の対戦では、ともに守るものが大きいだけに、この結果も仕方のないところか。
 だが、そんなもっともらしい言説も、'80年代“黄金の中量級”を知るファンには通用するまい。

 アメリカのボクシングシーンに登場したキラ星のごとき天才たち。かのガッツ石松も下した“石の拳”ロベルト・デュラン。モントリオール五輪金メダリストのシュガー・レイ・レナード。強打のラッシュでデビューからKOの山を築いた“ヒットマン”トーマス・ハーンズ。そして稀代のテクニシャン“マーベラス”マービン・ハグラー。
 圧倒的なパフォーマンスを誇る彼らによる戦い模様は「ボクシング界の頂点はあくまでもヘビー級」とされてきた歴史すら書き換え、米国内にとどまらず全世界を熱狂の渦に巻き込んでいった。
 「当時は日本でもテレビ東京系で中継があったので、それを見たという人も多いでしょう」(ボクシング雑誌記者)

 デュランがレナードを下せば、次にはハーンズがデュランをKO。そのハーンズに今度はレナードが勝利するといった具合に勝者は目まぐるしく入れ替わる。
 「そんな中でも最も人気が高かったのはハーンズ。長いリーチから繰り出されるフリッカージャブで相手を翻弄しながら、強打のラッシュで仕留めるファイトスタイルは見た目もハデで、さらにリングを下りてもビッグマウスでファンの関心を集めました。その一方、関係者の間で評価が高かったのはハグラーです」(同)

 ミドル級王座獲得はプロデビューから7年を経た54戦目と時間のかかったハグラーだが、これはあまりの強さを恐れた王者に対戦を拒否されたり、ようやくたどり着いた王座戦では泥仕合の引き分けに持ち込まれるなどがあってのこと。その当時に付けられたあだ名は“無冠の帝王”。それでもくじけず、地道なトレーニングを続けた結果の戴冠であった。
 王座奪取後のハグラーは遺憾なくそのテクニシャンぶりを発揮し、デュランらの強豪を次々と退けていく。そこに挑戦者として名乗りを上げたのが、ウェルター、スーパーウェルター級王座を制覇し、三冠目のミドル級に狙いを定めたハーンズであった。
 一度はレナードに敗れたハーンズだが、そこからまた連勝街道を突き進むと、'84年にはボクシング専門誌『リング』で年間最優秀選手に選ばれた('83年の最優秀選手はハグラー)。
 '85年2月、2人の対戦が発表されると、全米各地の都市を巡る両者のプロモーションツアーが組まれる。試合に付けられたキャッチフレーズはシンプルに“The Fight”。余計な装飾はいらない、ボクシングの神髄がここにあるというわけだ。

 そうして迎えた'85年4月15日、大歓声が包み込むラスベガスの名門ホテル、シーザーズ・パレス特設リング。運命のゴングは鳴った。
 テクニックのハグラーvs強打のハーンズという前評判を覆すかのようにハグラーが開始早々からラッシュに出ると、これに気圧されて引き気味ながらハーンズも応戦。第1Rから両者の間で激しくパンチが交錯する。ハグラーは揉み合いの中で額から出血。それでも前進を止めることなくハーンズの懐に潜り込むと、ボディーを中心にパンチを放ち続ける。

 第3R、コーナーを出たハグラーは、それまでのサウスポーからオーソドックスに構えをチェンジ。
 「基本、試合中はサウスポーなのですが、私生活では右利きで、オーソドックススタイルもスムーズにこなす。気を付けて見ていないと構えが変わったことにも気付かないほどです」(同)
 そんな変調にハーンズは調子を狂わされたか、ハグラーの放った右ストレートが顔面を捉える。さらにハグラーは飛び込むようにして大振りの右ストレートを3連発。このすべてをクリーンヒットされ、ハーンズはあえなくマットに沈んだ。

 ファンはおろか、専門家からも「地味」と評されたハグラーが世紀の一戦で見せた意地のハードファイトに、いつまでも歓声は鳴りやまなかった。