「これ、言うべきではないんだろうけれど......」

 全仏オープンに先駆けて、先週のローマ・マスターズ中に行なわれたインタビューでのことである。イギリス人記者に、「ローラン・ギャロス(全仏オープン会場)の思い出は?」と問われた錦織圭は、やや決まりが悪そうに前置きすると、こう続けた。

「僕が12〜13歳のころ、大会が行なわれていない時にローラン・ギャロスを訪れたんだ。そうしたら、警備員も誰もいなかった。そこで、こっそりセンターコートに入り、スタジアムを眺めながら、いつかここで優勝する日を夢見たんだ」

 あれから、10年以上の月日が経った。今や錦織は、世界のテニスファンや関係者が今年の全仏オープンの優勝候補のひとりに数える存在である。

「今年の全仏で優勝できると思うか?」。ローマでは会見中に、そんなダイレクトな質問が地元メディアから幾度も飛んだ。

「分からないけれど、努力はする。そうなれば素晴らしい」。その度に世界5位の25歳は、同じ言葉を繰り返した。

「圭は現在、2番目に優れたクレーコートプレーヤーだと僕は信じている」。そう語気を強めたのは、元世界ランキング1位で、現在はテレビコメンテーターとして活躍するジム・クーリエだ。

 世界中のテニス関係者が、錦織にここまで熱い視線と期待を向ける理由は、今、土のコートで起きている地殻変動にもあるだろう。

 過去10年のローラン・ギャロスの歴史とは、そのまま、「ラファエル・ナダル(スペイン)の時代」だと定義することができる。2005年の初参戦・初優勝という衝撃的なデビューを皮切りに、以降は負けなしの4連覇を達成。2009年こそ4回戦で敗れたものの、翌年からは再び連勝街道を爆走して5連覇中だ。過去10大会に出場し、優勝は実に9回。全仏オープンの通算戦績66勝1敗。毎年、大会期間中に誕生日を迎える彼は、まさに「ローラン・ギャロスの申し子」である。

 だが、その「ザ・キング・オブ・クレー」に、今年は異変が表われている。今季、ここまで6つのクレー大会に出場し、得たタイトルはひとつだけ。その優勝も、ツアーの中で最もグレードの低い「ATP250」クラスのブエノスアイレス大会だ。今年のクレーでは、アンディ・マリー(イギリス)やノバク・ジョコビッチ(セルビア)らのトップ選手に加え、30位前後のファビオ・フォニーニ(イタリア)に2度も敗れている。

 また、直近のローマ大会では、スタン・ワウリンカ(スイス)にストレートで敗れた。それも試合終盤に、過去のナダルのプレーを考えれば信じがたいような、フォアのミスショットを繰り返して、だ。単なる結果以上に、多くの人々がナダルの全仏優勝に疑問符を提示する理由が、そこにある。

 ちなみに、マドリード大会の決勝でナダルを圧倒したマリーは、意外にも昨年までクレーでの優勝がなかった。それが今年、ミュンヘン大会で自身初のクレータイトルを手にすると、翌週のマドリードでもミロシュ・ラオニッチ(カナダ)、錦織、そしてナダルを立て続けに破り、クレー2大会連続優勝。一気に、全仏の優勝候補に躍り出た。

 だが、それでも、「僕に言わせれば、彼(ナダル)こそが優勝候補の最右翼だ」と明言するのは、ナダルの生涯のライバル、ロジャー・フェデラー(スイス)だ。

「彼が過去10年で何を成し遂げてきたかを、決して忘れてはいけない」

 さらに、「テニス史上最高の選手」と称される33歳は、こうも続ける。

「グランドスラムは、5セットマッチ。そうなれば、ラファ(ナダル)がどれだけフィジカルとメンタルの両面で強いか、誰もが知っていることだろう」

 この、「5セットマッチ」がもたらす効果について、当のナダルはこう私見を述べている。

「5セットマッチは、ベストな選手にとって助けとなる。自分より強い選手に勝つには、3セットよりも2セットを先取するほうが簡単だ。だから、5セットマッチで勝つ選手こそが、ベストな選手と言えるだろう。僕がベストな選手なのか、どうなのか......それは分からない。もし、僕がそうなのだとすれば、5セットは優位に働くだろうし、そうでなければ不利になる」

 そのナダルに代わり、今年の全仏の最有力優勝候補と目されているのが、世界1位のジョコビッチだ。今季の戦績は35勝2敗。目下22連勝中で、クレーでは無敗である。

 全仏オープンは、ジョコビッチが唯一まだ手にしていないグランドスラムだ。その最後のピースを手にする最大のチャンスに向けて彼は、「特に何かを変える必要がなく、今の調子を維持すれば勝てるという自信を持って全仏を迎えられるのは、素晴らしい感覚。ギアを上げる必要もないし、落とす必要もない」と落ち着いて構える。今季クレー10連勝の道中では、フェデラーやナダルに加え、ダビド・フェレール(スペイン)や錦織という、全仏タイトルを競うだろうライバルたちも退けてきた。過去最高の手ごたえを手の平に残したまま、王者はローラン・ギャロスの赤土に足を踏み入れる。

 そのジョコビッチは、ローマ大会の準々決勝で錦織をフルセットの末に破っている。

「錦織の能力について、どう思うか?」

 そう問われた世界1位は、「圭はもはや、テニス界の未来を担う存在として、みんなが待ち望んでいる選手ではない。将来を期待される若手でもない。彼はすでに確立されたトップ10プレーヤーであり、グランドスラム準優勝者。常に攻撃的で、特にツアーでも1、2を争うバックハンドの持ち主だ」と、最大級の敬意をもって断言した。

 昨年のマドリード大会決勝で、錦織がナダルを剣が峰まで追い詰めた試合で見せたように、今やジョコビッチやマリーもベースラインから下がらず、跳ねた直後のボールを叩いて畳み掛けてくる速い展開で、クレーコートでも勝利を重ねている。過去10年間、ローラン・ギャロスを支配してきたナダルと、それを追撃するジョコビッチやマリー、錦織らとの対立構図は、クレーでの戦法を巡る「伝統と革新の対立」と見ることができるかもしれない。

 そんな革新テニスの旗手たる錦織は、グランドスラム優勝の可能性を問われると、常に、「あと数年のうちに優勝したい」と繰り返してきた。だが、性急なメディア(それは日本に限ったことではない)の間からは、今年の全仏での優勝を期待する声も多く上がっている。

 果たしてその、「数年のうち」がいつになるのか、今年の全仏オープンで頂点に肉薄できるのか――それは、誰にも分からない。

 だが、十数年前に、センターコートにこっそり忍び込んだ少年が見た夢のその続きを、自分たちの夢や希望に重ねながらグランドスラムを迎えられることは、とてつもない幸福だ。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki