『ジーン・ウルフの記念日の本 (未来の文学)』ジーン・ウルフ 国書刊行会

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 ジーン・ウルフの第二短篇集。ちょっと変わったタイトルは、各収録作がなんらかの「日」----祝祭日もあれば狩猟解禁日みたいなものもある----に対応しているからだ。ただし、作中の出来事がその「日」にピッタリ合っているとはかぎらない。題材的に結びつくくらいの、ごくゆるやかなルールだ。また、連作ではなく、もともとは別個に発表された作品である。

 冒頭の「鞭はいかにして復活したか」(リンカーン記念日)は、国際的な了解のもとで奴隷制が合法化へ向かっている未来の物語だ。視点人物のミス・ブッシュナンはアメリカの慈善活動団体の女性幹部で、この議案を扱う会議にオブザーバーとして参加するためジュネーヴを訪れている。彼女が宿泊しているホテルをローマ教皇が訪ね、ふたりのやりとりでストーリーは進行し、シームレスに過去の挿話や印象が入りこむ構成だ。ウルフはほとんど説明的な叙述をせず、未来世界を描いていく。彼の表現は丸い水滴のごとく、小さな言葉のなかに大きな局面を映しだす。教皇が吸っている葉巻は安物だ。ゆうべ最後の修道女が亡くなった。そんな断片から読者はカトリックの凋落を推察する。さりげなく示される異様な状況は、現代SFならではの醍醐味だろう。しかし、ウルフの仕掛けはそのレベルにとどまらず、よりデリケートな表現性へ及んでいる。

 たとえば、ミス・ブッシュナンが泊まったスイートルームは赤と緑で構成されているのだが、この二色、さらにほかの色も、作品のなかで意識的に(ただし物語になじんで)配色されている。宮脇孝雄氏の翻訳はそれを汲みとった丁寧なものだ。この色使いについての解釈、そのほか諸々の技巧(ダブルミーニングやアリュージョン)の発見は、これからお読みになる読者にお任せしよう。

 とはいえ、一字一句吟味しながら読むべき----なんてヤボは言わない。小説なのだから自由に読めばよいです。アイデアやプロットだけに着目しても、それなりに楽しめる作品が多い。

「継電器と薔薇」(バレンタイン・デー)は、ロバート・シェクリイをマイルドにしたような軽いコメディだ。コンピュータの飛躍的な性能向上により、世界中から理想の結婚相手が見つけだせるようになる。社会は少しだけ混乱するのだが、おおむねハッピーに収まって洒落たオチがつく。1970年の作品なので社会通念や科学技術の描写が古びているのはご愛敬だが、コンピュータ・サービスの無料提供によって忠実な顧客を獲得するマーケティング戦略は、現代のネット文化を予見したかのようだ。

「ポールの樹上の家」(植樹の日)では、高い樹の上につくった小屋にこもりきりの少年に対し、大人たちが降りてくるようあれこれと策を講じる。そのなりゆきはほのぼのと牧歌的だが、物語のあいまにディストピア的な社会背景がちらりちらりとのぞく。のどかな雰囲気からいきなり急展開する結末へと突入し、その落差がすさまじい。

「カー・シニスター」(母の日)は、自動車は動物と同じように交配・繁殖するのだという法螺話。雑種の自動車がちょっと妖怪じみていて、それに振りまわされる主人公のしょんぼりぶりがおかしい。

「住処多し」(ハロウィーン)は植民惑星が舞台だ。ここではかつて人間の脳を家へ移植し思考力を持たせていた。その技術は星間戦争を挟んで失われてしまったが、いまでも森の奥などに自律して移動する家が残っているという。にわかには信じがたい都市伝説じみた話だが、現地の老女は外部から来訪した〈復興担当局〉の女性職員にとくとくと語ってきかせる。さらに途中で帰宅した老人が別な視点から話をはじめ、だんだんと不吉なお伽噺のような雰囲気が立ちこめていく。

「取り替え子」(ホームカミング・デイ)では、さらに不吉さが増す。戦争が濃い影を落としている点は「住処多し」と共通だが、こちらは現代(作品執筆当時)のアメリカが舞台で、語り手の私は朝鮮戦争からの帰還兵だ(これはジーン・ウルフ自身の経歴と重なる)。私は故郷の町へ戻って懐かしいひとびとと再会するが、思い出を語りあうと一点だけ食い違う部分がある。子供時代に私はピーター・パルミエルと喧嘩したはずだが、誰もがそれはピーターではなく別の少年だと主張する。「ピーターはそのころまだ生まれていなかったじゃないか」というのだ。私が真相を確かめるためパルミエル家を訪ねると、そこには記憶と同じピーターがいた。つまり、どうみても八歳か九歳の少年のままの姿だ。ここまではホラーの常道だが、ウルフはさらにその底を抜いてしまう。取り替えられたのはピーターだけではなく、もうひとつの取り替えは物理的なものとは限らないのだ。アイデアそのものはフィリップ・K・ディックの初期短篇にありそうだが、ウルフはディックほど派手ではない。そのかわりに、意識がすうっと薄くなるような喪失感がある。

「フォーレセン」(労働者の日)も、外形的にはディックばりの不条理SFだ。エマニュエル・フォーレセンが目覚めると、自分の名前だけしか思いだせない、しかし、大変事が起きたふうもなく、そこはあくまで平凡な家庭の朝だ。妻を名乗る女(彼女も記憶を失っているが平然としている)に助言されて謄写版刷りの「オリエンテーション」を読むと、そこに彼がなすべきことが細々と書いてあった。それによると、勤め先はモデル・パターン・プロダクツ社、職務内容は監督業務と管理。自動車を運転して出社すればいいらしい。「オリエンテーション」はおおよそ日常的なことがらだが、ときおり意味不明の注意書きやちくばぐな記述がある。たとえば13箇条におよぶ運転中の禁止事項の5番目は「ヒッチハイカーを乗せること」であり、6番目は「ハイウェイ・パトロールの駐在所以外の場所でヒッチハイカーを降ろすこと」である。乗せない決まりのヒッチハイカーなら、どうして降ろす場所に制限があるのか。

 もっと不可解なのは「一日は二百四十時間である」の記述だ。しかし、フォーレセンは疑問を持たない。出社したのちも、会社独自の恣意的慣習や空気を読めよ的な無言の圧力とか縦割組織のたらいまわしなどがあり、フォーレセンを翻弄するのだが(ちょっと抵抗を試みたりもする)、それでもなんとなく仕事をしているふうになるから不思議だ。

 現実崩壊と言えばそうかもしれないのだが、ここにはディック作品にみなぎる妄執的な激しさはない。見通しが悪いままの日常をフォーレセンはなんとなく受け入れていく。あるいは二百四十時間の一日は、彼の人生を象徴的になぞったものかもしれない。

 さて、本書に収録された小説は18篇だが、「まえがき」に埋めこまれている逸話を含めると、記念日の数はつごう19となる。その逸話は、図書館の秘密の出入口(ただし一方通行)から本を持ちだし自室に集めてしまった男の顛末で、ウルフは「返却期限日」と呼んでいる。これも何かのアレゴリーなのだろうか。この短篇集全体の成りたちを示しているようにもとれる。

 ......ああ、どうもいけない。相手がジーン・ウルフだと、ついつい判じものを解く気持ちで読んでしまう。まあ、それも一興だけれど。

(牧眞司)