『夏目漱石、読んじゃえば?』(14歳の世渡り術)奥泉光 、香日ゆら/河出書房新社

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夏目漱石は来年(2016年)は歿後100年、再来年(2017年)は生誕150年を迎えるそうだ。
もっとも、漱石にかんする本は、なんでもない年にだって毎年のように大量に出ている。じっさい、書店に行けば「漱石本」は汗牛充棟、どこから読んでいいのやらわからないくらいだ。

奥泉光『夏目漱石、読んじゃえば?』(河出書房新社《14歳の世渡り術》シリーズ)が出た。これは買いです。
挿画は香日(こうひ)ゆらさん。『先生と僕 夏目漱石を囲む人々』『漱石とはずがたり』(KADOKAWAメディアファクトリー)と、漱石ネタの4コマ漫画やエッセイ漫画の作者だ。
香日さんは本書の冒頭に、序文のような形で漫画(8頁)も描いている。その最終頁で、100年後の現在も自分の作品が広く読み継がれていることを知った漱石が言う。

〈読み継がれてるのはいいんだけれど
文豪とか純文学とか教科書に載ってるとか
なんだか小難しいイメージなんだって?
小難しく読みたい奴にゃ勝手に読ませときゃいいがね〉
そして〈僕の作品が大好きだという百年後の小説家〉=奥泉さんにこう尋ねる──
〈きみは僕の作品をどう読むんだい?〉

本書は、漱石からのその問いに、奥泉光が答えたものだ。
〈坊っちゃんがキレる若者だとすれば、三四郎はシャイな草食系男子〉(5章。以下引用中の太字は原文)
のような読解は、ドリーさんの『村上春樹いじり』(三五館)をちょっと思い起こさせるところもある。
では本書は、奥泉さんが漱石作品から10作程度を選び、ツッコミもまじえながら「自分ならこう読む」というその読みどころを教えてくれている本なのか?

必ずしもそうではない!
この本は「漱石の作品についての本」として読むのではなく、「小説・散文一般についての本」という本として読むのがいい。
著者は、漱石作品の登場人物や語りの構造にツッコミを入れながら、じつは、
「小説・散文をどう読むか」
を語っている。
もっと言うと、
「小説・散文とどうつきあうか」
つまり、読者側の「コミュニケーション能力」について語っているのだ。
〈小説がつまらないと感じたときは、その小説をつまらなくしているのは自分自身なのかもしれないとまずは思った方がいい。なにがなんでも面白がってやる、くらいの気合があった方がいい〉
〈小説を面白くするのは君自身なんだ〉(1章)
 これが〈本書を貫く大原則〉なのだ。

〈だとすれば、小説の読解というのは労力の要ることだと思わないかい? ある意味、めんどくさいよね。受け身じゃダメ〔…〕と言われても、ダルいなと思うかもしれない。
でも、そのめんどくささに見合うだけの喜びや面白さがある、もとは絶対にとれる、このことは僕が約束しよう〉(1章)

ということは、小説を読むということは、好きな女の子の買物に同行することに似ているんだな、としみじみ思う。
あるいは、子どもを育てることに似ている、と思う人もいるんじゃないだろうか。
それから、もうひとつの大原則は
〈小説を読むことの醍醐味は、物語ではなくて文章そのものを読むことにある〉(8章)
ということ。
〈小説には、ストーリーがものすごくクッキリしたものもあれば、ほとんどストーリーがないものもあるけど、どちらにも面白い作品はたくさんある〉(1章)
 たとえばこういうこと──
〈面白いミステリー小説は、ネタバレしようが何しようが、面白いことに変わりない〔…〕。小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』なんて、最後から読んでも面白いミステリーだよ。というか、最初から読んでも、なんだかよく分からないんだけどね(笑)〉(1章)
ふざけてんのか!と怒る人もいるだろうけれど、奥泉さんの言うとおり、〈なんだかよく分からない〉小説は〈面白い〉小説と両立する。それどころか、「よくわかる」小説に〈面白い〉が乏しいほうが多いかもしれない。
ということは、
〈本当によくできたミステリーは、犯人がわかっていても面白く読める。ネタバレしたら面白くないなんて決めつけは、読書の面白さを半減させるだけだ〉(1章)
するとどうなるかというと、

〈『こころ』は
〔…〕「上」と「中」で謎を仕掛けて「下」の遺書のなかで先生と奥さんの関係について「実はこうでした」って明かされても、「うん、もう知ってますんで」〔…〕ネタバレしてもなお面白いという強さがいまひとつない〉
ので、
〈無理して読まなくていい小説です〉(7章)

うはは、言い切っちゃったよ。そういえば『夏目漱石を江戸から読む 新しい女と古い男』(中公新書)の著者・小谷野敦にも、『『こころ』は本当に名作か 正直者の名作案内』(新潮新書)という問題提起的な題の本がありました。

じゃあ『こころ』の奥泉さんの読解を聞いててもおもしろくないかというと、そんなことはない。
『こころ』の後半(「上」「中」が前半で、「下」が後半)は〈先生〉が〈私〉に書いた手紙(遺書)だ。
〈「私」が実家にいて、父親がもうすぐ亡くなるかもというタイミングで、先生から手紙が届く。
この手紙がものすごく長いんだよ〔脚註〈『こころ』全体の約半分を占める〉〕。〔…〕四つ折りになった原稿のような体裁の手紙らしいんだけど、「下」の内容を実際に原稿用紙に書き写したら、絶対に四つ折りにできないんじゃないかな。手紙をもらった「私」は、「袂〔たもと〕の中へ先生の手紙を投げ込んだ」というんだけど、こんな大量の手紙を袂に入れたら、パンパンになっちゃって大変だよ!〉(7章)
たしかにそうだ!
奥泉さんはこの『こころ』のなかでは、「中」の終わりの、〈私〉が手紙を受け取って慌てて〈先生〉のところにかけつける場面だけは高く評価している。
〈もう、このへんだけ読んでくれればそれでいいよと思えるくらいにかっこいい〉(7章)
ってなんか失礼な褒めかたなんだけど、これが小説のほんとうの楽しみかたななんだと僕も思う。

なにしろ、
〈「夏目漱石は何か読みましたか?」と聞かれたら、タイトルしか読んでなくても「『吾輩は猫である』を読みました」と答えていい。事実、タイトルは読んだわけだしね〉(1章)
というラディカルな姿勢なのだ、奥泉さんは。
「文章が大事」ということはまた、以下のようなことでもある──
〈「親譲りの無鉄砲で、小供の時から損ばかりしている」とある。もしもこれが「親譲りの無鉄砲で、小供の時から損ばかりしていました」という語尾だったらどう? 急に勢いがなくなる感じがしないかい?
 〔…〕「小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がありました」〔…〕なんか暗いだろう?〉(4章。下線は原文では傍線)
文末だけで『坊っちゃん』が『人間失格』に!

奥泉さんの小説には、オリジナル続篇『「吾輩は猫である」殺人事件』(新潮文庫)や変奏作品『坊ちゃん忍者幕末見聞録』(中公文庫)があり、またヴェルヌのパロディ『新・地底旅行』(朝日文庫)や『神器 軍艦「橿原」殺人事件』(新潮社)には『坑夫』の文体模写のような部分がある。奥泉作品自体が、漱石へのレスポンスとして書かれている部分があるのだ。

奥泉さんの思い出話もまた傑作。
高校時代、クラスメイトのニシダくんが庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫)にハマって〈あれは俺のことだ〉と言っていた。
この小説の主人公は官僚の息子で日比谷高生、家にはお手伝いさんがいて、自分は銀座や赤坂で遊ぶ裕福なインテリで、たぶん山手線の内側に住んでて、ガールフレンドは女子大附属校生(お嬢さま)、という都会丸出しの小説だった。
いっぽう〈あれは俺のことだ〉と言うそのニシダくんは、飯能の奥地に住んでいた。
〈思いっきり山手線の外側だ、というか、山だよ、山〉
〈お手伝いさんがいないかわりに鶏がいた。可愛いガールフレンドはもちろんいない〉
〈「小説ってすごい!」と心から思った。どう考えたって『赤頭巾ちゃん気をつけて』の世界とニシダくんの世界は重ならないのに、本人は「あれは俺のことだ」と思っている。そのことに小説の力を感じたんだよね〉
 〈読書は時空を超える〉(5章)

 まさしく、これが小説の力なんだ。
〈小説には正しい読み方とか間違った読み方は存在しない〔…〕正しいとか間違っているとかいう軸では、小説は読めないんだ。ただし、面白い読み方とつまらない読み方、豊かな読み方と貧しい読み方という軸はある〉(7章)
『夏目漱石、読んじゃえば?』を読んでると、奥泉さんの「読み」がこちらのフィジカルに直接影響してくる。じっとしてられなくなる。
小説を読むということは、読者が自分の全身体・全精神・全経験を使って小説のグルーヴを生み出していく作業なのだ。
(千野帽子)