このところテレビのバラエティー番組への出演が増え、早くも「今年一番ブレイクした人物」との声すらある篠原信一。だが、その現役時代はどこか“脇役”のイメージが付いて回った。

 1997年から全日本体重別選手権95キロ超級で5連覇、無差別級の全日本選手権も'98年から3連覇。講道館杯でも'97年に優勝と、その実績は歴代の名選手たちと比べても全く遜色のないものだったが、この当時「もはや日本柔道の重量級は世界にかなわない」というのが世間一般からの見方だった。
 「篠原も世界選手権で優勝するなど世界トップクラスの柔道家でしたが、一般ファンはどうしてもオリンピックの結果ばかり注目しがちです。'92年バルセロナ、'96年アトランタと2大会連続で重量級からの優勝がなく、一方、中軽量級では古賀稔彦、吉田秀彦、野村忠宏、中村兼三など続々と金メダリストが誕生した。重量級への注目が薄れたのも仕方ありませんでした」(スポーツ紙記者)
 また日本のファンは「柔よく剛を制す」との格言に慣れ親しんでいることもあり、日本人離れした巨躯の篠原には感情移入しづらい面もあっただろう。篠原並みに高身長の小川直也も、精神面の弱さを指摘されるなど、どこか否定的な論調が付いて回ったものだった。

 そんな篠原の現役中、日本中から最も多くの声援が集まったのが、2000年シドニー五輪100キロ超級決勝戦であろう。
 対するダビド・ドゥイエは前回五輪の同級覇者で、世界でも有数の柔道愛好国の一つであるフランスの英雄的存在。だが今大会は腰痛による長期欠場明けで、大会出場自体も危ぶまれていたような状態だったことから、直近世界選手権優勝の篠原が有利というのが大方の評価であった。
 とはいえ、さすがドゥイエも実力者。いざ試合となれば一進一退互角の攻防が続いたが、それでも徐々に篠原が組手などで優位に立ち始める。

 そうして残り時間1分15秒、後に柔道競技のルールを変えるきっかけにもなった大事件が起こる。
 押され気味のドゥイエが強引に左内股を仕掛けたところを篠原は冷静に見切り、左脚をピンと宙にあげてその技をかわす。そうして残した上半身で力を加えると、ドゥイエの身体はきれいに一回転して背中から畳に落ちた。
 これを見てテレビの実況では「内股すかしで一本!」と断言している。

 しかし、入ったポイントは有効。それもドゥイエの側への加点だった。
 それを見てもなおテレビ解説では「(篠原の)有効ですか」と残念そうで、さらに「得点の入れ間違い」とまで言ったほど。専門家の目からすれば、明らかに篠原の技が決まったと映ったのだ。
 しかし、斉藤仁コーチが試合場の畳の脇から審判に向かって猛抗議を始めたことで、ようやく「ドゥイエの内股が有効とされた」ことがわかってくる。

 VTRのリプレイ映像には、確かに主審と副審の1人がドゥイエに旗を揚げる様子が映っている。しかし同時に、篠原の内股すかしもはっきりと映し出されていた。
 審判の裁定が覆ることのないまま試合は進み、一度はドゥイエの消極的姿勢に注意が与えられたことでポイントは並んだものの、決め手を欠いた篠原は再びドゥイエの技に有効を許してしまう。これにより金メダルはドゥイエの手に渡った。

 篠原は表彰台で悔し涙を流すような様子を見せながらも「勝てなかったのは気持ちの切り替えのできなかった自分の弱さ」と、決して誤審を責めようとはしなかった。柔道界ではこの試合以降、ビデオ判定が取り入れられることになった…。
 そんな篠原が悲劇のヒーローとして柔道界の主役となったのかといえば、さにあらず。同じシドニーの100キロ級金メダリスト井上康生が日本柔道界の顔となっていったのだった。

 ちなみに篠原が最近、テレビ番組の中で「自身のベストバウト」としたのは件のドゥイエ戦ではなく、現役最後の試合となった'03年、全日本選手権準決勝の鈴木桂治戦。1対2の判定で敗れたその試合を挙げた理由は「柔道界でヒール扱いされてきた自分が、初めてお客さんたちから温かい声援を受けたから」というものであった。