現在絶版となっている愛川欽也の小説『泳ぎたくない川』(文藝春秋)

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「おまっとさんでした」

 もうこの口上を聞くことはできない。16日、ワイドショーはこのニュース一色に染まった。「愛川欽也死去」。現役最高齢の情報番組司会者としてギネスブックにも載った、親しみやすい語り口でありながらときに硬派な人気者は80歳でこの世を去った。肺がんだった。

 20年間、一回も休むことなく続けた「出没!アド街ック天国」(テレ東系)の千回記念放送を機に番組を降板した3月、メディアでは「重病説」が囁かれた。所属事務所や妻・うつみ宮土理はこれを否定し続けた。

 だが4月上旬、自宅に介護ベッドが運び込まれたり、在宅診療専門の医療スタッフが点滴用のパックを運び込む様子が目撃されるようになる。同じ時期に自身が運営するインターネット放送局は閉鎖され、5月から撮影開始の予定だった連続テレビドラマも中止になっていた。事態は関係者たちの杞憂に終わることはなかった。15日、東京・渋谷区の自宅で息を引き取ったのである。

 本職の俳優に加え、劇団主宰、ラジオパーソナリティ、歌手、と多才ぶりを発揮した愛川だったが、多くの著作も残している。その中に、今では絶版になっている自伝的小説がある。2004年に出版された『泳ぎたくない川』(文藝春秋)。昭和9年生まれの愛川が少年時代、青年時代を過ごした戦中戦後の体験を、当時の空気そのままに再現している。空襲、疎開、貧困に差別、混乱の時代に翻弄された人々と、自らの家族が直面した困難を描いた一作だが、そこにはユーモラスで賑やかだった愛川からは想像もできない、意外な知られざる一面が明かされている。

 作中で愛川は「敏雄」として書かれている。それ以外のプロフィールは「小説」とはいえ出生地、疎開先、経歴も後に本人が語った事実に基づいている。「知られざる一面」を匂わせる一節は物語が始まってすぐに記されている。

〈敏雄は母に甘えて育った。母も歳をとってから生んだ敏雄が可愛くてしかたがなかった。敏雄のそばには、いつも母の顔があった。敏雄は父とのふれ合いが少なく、父に抱き付いたりした記憶がない。敏雄がそれをさびしいと思わなかったのは、母に充分甘えることが出来たからだ。敏雄は井口ミイと高田善三の間に生まれた子だった。〉

 昭和7年、28歳のミイはウエイトレスとして働いていた神田のミルクホールで善三と出会う。惹かれあう二人は交際を始め、ミイが一人暮らしをする巣鴨の家に善三が足繁く通うようになる。そんなある夜のこと、

〈ミイは決心して訊いた。「善さん、いつ籍を入れてくれるの?」隣に寝ていた善三が、「そうだな......ミイさんに子供ができた時かな」ミイは目を閉じて、もう一度、善三の体にしがみついていった。その夜も、夜明けの前に善三はタクシーを拾って、五反田の家に帰っていった。〉

 50歳近かった善三は、すでに家庭を持っていた。それでもミイとの将来を口にしていた。ミイは19歳で最初の結婚をしたが、たった二年で夫は結核で死んでしまう。ミイの父親は3歳の時に亡くなり、母親もミイの花嫁姿を観たすぐあとに死んだ。家族の縁が薄かったミイは歳の離れた善三にすがれるのが嬉しかった。

 しかしミイが高田と家庭をつくる夢は叶わなかった。銀座へデートに出かけレストランで食事をした後、ミイは吐き気を催す。トイレに駆け込むと、

〈洗面所の鏡で自分の顔を見た。鏡に映る顔が、歓喜の顔にみるみる変わっていった。〉
〈「喜んでちょうだい。子供ができたらしいのよ。もう大丈夫、気持ちなんか悪くないわよ。幸せよ私。私のお腹の中に善さんの子供がいるのよ」
「そうか」
 複雑な顔をした善三を、ミイは喜びのあまり読み取ることはできなかった。(中略)その晩、善三はミイを抱かずに、夜中に五反田に帰っていった。〉

 その後、敏雄が生まれてからは善三がミイの元を訪れる機会は次第に減っていく。物語は敏雄と母・ミイが疎開で離ればなれになるなかで、互いに思いを募らせる逸話が中心となり、父親に関する記述はほとんどなくなる。

 学童疎開先の上田に母が面会にやってきたとき、母は空襲が激化する東京を離れるときは敏雄とともに田舎へ行くために迎えに来る、と話すと〈敏雄は早く迎えに来てくれるように、アメリカの爆撃がもっとひどくなればいい〉とさえ考えるようになり、母は敏雄に甘いものを食べさせるために着物と砂糖を交換していた。母と息子は互いの孤独を互いへの依存で埋めるようにして生きていく。

 やがて終戦を迎えても、空襲で巣鴨の家を壊された母と息子は茨城、秋田と疎開生活を続けた。秋田では「疎開者」と敏雄をいじめる者がいた。母が買ってくれたばかりの帽子をひったくられてどぶ川に捨てられた。敏雄は泣きながら家に帰るとナタを手に「あいつを殺してやる」と叫んだ。母とともにいじめっ子の家へ行き、凛とした声で母は抗議した。

〈「敏雄、帰ろう」外に出ると母は敏雄の手から鉈を取り上げてその手をしっかりと握って歩き出した。敏雄も母の手を握り返した。二人は手を離さずに歩いた。一本道の先に夕日が落ち始めていた。親子二人の影法師が、二人の歩く後に長く伸びて見えた。〉

 その後、敏雄は高校に入学し、映画に傾倒。途中で、俳優養成所に入学し役者を目指す。その間、アルバイトとしてキャバレーやストリップ劇場でバンドのドラマーとして働き、浅草で二人のストリッパーと奇妙な共同生活を送るものの、役者としては一向に目が出ない。

 そのうち、ヤクザがらみのトラブルに巻き込まれ、敏雄は浅草を引き払い、再び母親と生活をするようになる。しかし、その後も何をやってもうまくいかない。本屋をやれば失敗し、インチキな服地のセールスもダメ。焦りと苛立ちの末、ついには母親の出す食事を膳ごとひっくり返すまでに荒れる。チンピラに刺されて「あと1センチ深かったら危なかったかもしれないよ」と医者に言われるほどの傷を負った。

 しかし、退院して家に帰った日、敏雄は母から思いもしなかった事実を知らされる。

〈母はいつになく緊張しているようだった。
「母さんはお前に謝ることがあるんだよ。(中略)お前の父さんは、敗戦の翌年に病気で死んでしまったんだよ。(中略)お前が父さんのことをどう思っているか訊きもしないで、父さんの死をお前に話さなかったことは申し訳ないと思っているよ、ごめんね」
 父親は敏雄の知らない町で、知らないうちに死んでいたのだ。母は親子三人で巣鴨の家で静かな一生を暮らす夢を抱きながら敏雄を育てていた。戦争のせいもあるが、善三は母を籍に入れることは実行せずにこの世を去った。母は苦労を感じる暇もなく敏雄を食べさせるために夢中で生きてきたのだ。〉

 告白はこれに留まらなかった。

〈「それからね、大事な話なんだけれど、母さんはある人のお宅へ行くことに決めたよ。歳をとった男の人でね、老後の世話っていうのかね。(中略)その人がさ、母さんにきちんと家に入ってくれって言うんだよ」
 母は言葉を選びながら言いにくそうに話を続けた。(中略)敏雄は突然の母の再婚話に頭の中が白く溶けていくような気がした。〉

 突然、父の死と、母とはもう暮らせないことを知らされた敏雄は玄関に向かい靴を履く。その背中に母は言う。

〈「明後日にはそちらの家へ行くことにしたのよ。あと二晩しかお前と二人だけで過ごせないんだよ。一緒に御飯を食べようよ。母さん、お前の好きなオムライスかバターライスを作るから」
 それでもガラス戸を開けて外に出た。行く先も決めずに敏雄は暗い道を歩いた。(中略)母が再婚するのが嫌だった。母が自分の知らない男の所へ行ってしまう。急に母が遠い人に思えた。〉

 母と過ごす最後の日は、こう描かれている。

〈目がさめると昼だった。「お腹空いたろ。出来てるよ」小さなお膳にオムライスとみそ汁が並んでいた。母の作るオムライスを食べるのはこれで最後になるだろう。敏雄はゆっくり時間をかけて母の味を噛みしめていた。〉
〈その後、地蔵通りの商店街を過ぎ、巣鴨橋を渡ると急に人通りが少なくなった。「母さん」母の手を握った。母もうれしそうに握り返した。二人は同じことを思い出していた。秋田の湯沢で、敏雄がナタを持っていじめっ子の家に乗り込んで行った帰り道のことを。今夜は街灯の光をうけて、影は通りの塀に映っていた。母の影は敏雄の影より小さかった。〉

 敏雄、つまり愛川の母親への想いは計り知れないほど強く特別であったことを本書は語っている。愛川の死を伝える番組のなかで、アグネス・チャンは「愛川さんはとてもフェミニストだった」と語った。アグネスが子連れ出勤論争でバッシングを受けるなか、全力で擁護したこと、楽屋で母親を待つ子供を人一倍、愛川は可愛がっていたとも語った。あるいはそこに、自らの幼少期、母と暮らした日々を重ね合わせていたのだろうか。

 一方、後のインタビューでは父親について「おやじは、よその人でした。そんなこと僕は小さい頃一切知らなかった」とも明かしている。愛川の母は1979年に亡くなっている。今頃、36年ぶりに甘えているだろうか。再会の時はこう言ったかもしれない。

「おまっとさんでした」
(相模弘希)