『境界の民 難民、遺民、抵抗者。国と国の境界線に立つ人々』安田峰俊・著/角川書店
 在日難民2世、ウイグル人、台湾人、中国人と日本人のハーフなど、国と国の狭間を生きる人々を丁寧に取材したルポルタージュ。日本メディアの中国人への蔑視を嫌がるジャーナリスト志望の青年。台湾人留学生の日本への冷静な目。日本の右翼団体に翻弄されるウイグル独立運動。昨今あふれる「外国人から見た最高の日本」ブームに一石を投じる一冊。著者の、マイノリティを多角的に取り上げようとする繊細さも本書の魅力だ。

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テレビをつけるといつも外国人から見た日本や日本人というテーマの番組が放送されている。実際、番組表を調べてみると、「YOUは何しに日本へ?」「ネプ&イモトの世界番付」「とっておき日本」「世界が驚いたニッポン! スゴ〜イデスネ!!視察団」などなど、盛りだくさんだ。番組で繰り返し語られるのは日本の美しさや素晴らしさ。日本人は外国人から尊敬され、羨まれているという内容である。

テレビに映る「日本」は、まるで楽園のようだ。だが、その実情はどうなのだろうか。

中国・アジア事情に通じるノンフィクション作家・安田峰俊の新刊『境界の民 難民、遺民、抵抗者。国と国の境界線に立つ人々』は、国民国家体制の狭間で生きる人々を追ったルポルタージュである。本書の主人公たちは、在日難民2世、ウイグル人、台湾人、中国人と日本人のハーフたち。彼らは様々なかたちで日本や日本人と接点を持っており、その点で本書はよくあるマイノリティ・リポートと一線を画している。

たとえば、女子高生のミーさんは、ベトナム戦争後に資本主義側の日本へ亡命したベトナム人難民の2世だ。漫画『マギ』やボーカロイドが好きな、今時の普通の女の子だが、2ちゃんねるの「まとめサイト」をよく利用するうちに、ネット右翼のようになってしまったという。

「『2ちゃんねる』だけじゃなくてツイッターとか『ニコニコ動画』にも、『在日は特権を持ってるズルいやつ』って、いっぱい書いてるじゃないですか。でも、私たち二世にはそういう『特権』って何も無いので『在日だけズルい』みたいな気持ちになるんだと思います」

いわゆる「在日特権」というのはネット上で生まれた完全なデマだが、彼女はそこに「ネット右翼化」する正当性を見いだしているようだ。しかし、本当の理由は別にあるようだ。

「小学校までは、二世の男子って結構怖いんですよ。なんていうのかな、同族嫌悪みたいな? 自分が過剰に日本人であろうとして、わざと普通の日本人の意地悪な同級生とつるんで、他の二世の弱い子をいじめるんです」

ミーさんの言葉から伝わる「無国籍」によってアイデンティティが揺らぎ、苦しむという心境は、マイノリティに特有のものだ。だが同時に、ネット右翼たちが過剰に「日本人である」ことを強調することを思い起こさせられた。著者は指摘する。

「日本で「普通の市民」として暮らすということは、近年のこの国の社会に生まれた病理を抱え込むことも意味しているのだ」

一方で、日本とかかわる中で、距離を置いた人もいる。
たとえば、第四章に登場する木村春香さん。父親が日本人で、母親が中国人のハーフである。日本で義務教育を受け、公立高校へ通ったが、大学は上海を選んだ。趣味はレゲエ。2011年の東日本大震災では、いち早く上海で彼女の企画したレゲエのイベントでチャリティー活動を行った。なぜなら、彼女にとって「日本が祖国」だからである。

しかし、彼女は日本に対して複雑な思いを抱くことになる。一応の混乱が収まった2011年の夏に、「意識高い系」の日本人留学生たちが、派手なチャリティイベントを大手日系企業に何十万円もの資金をカンパさせて行おうとしたのだ。

イベントの参加者は数人で、大失敗に終わった。「実際は無駄遣いばっかりの大失敗なのに、大企業の偉いおっさんらはコロッと騙されて、彼らを『感心な若者たちだ』『日本を救うグローバル人材だ』とか言い出したわけなんですよ」

口先だけの「意識高い系」日本人留学生たちは、大手商社に就職していった。一方の春香さんは、日本で就活を行ったおり、ピンク色のシャツを着ていることを理由に、落とされた。

「日本の社会での『グローバル』って何なのかなって。履歴書がパソコン書きだったり、靴が尖ってたりピンクのシャツを着ていたり、上海の大学を卒業していたりしちゃダメって、それはグローバルじゃなくて一〇〇%の日本ルールじゃないですか。だったら最初から、『ウチの会社は日本的な価値観を持つ方だけを採用します』ってちゃんと言えばいいのにと思うんですよ」

結局、春香さんは、上海の現地企業に就職した。グローバルな人材を求める日本企業は、しかしその実ものごとの考え方、立ち振る舞いは徹底的に「日本人」であることを求めるのだ。企業側にも言い分はあるだろう。だがやはり、日本社会の中には、中国と日本をまたにかける国際人を閉め出してしまうような閉鎖性があるのだ。

さらに胸を締め付けられるようなエピソードがある。張さんという20代の青年の話だ。国籍は中国だが、義務教育を日本で受け、中国語も日本語もペラペラな才能あるジャーナリスト志望の青年だった。

彼は、日本の大手メディアの上海現地スタッフとして働いていた。中国ではメディア関係者が公安にマークされることが頻繁にある。薄給で危険ながらジャーナリストとしての仕事をつづけていた張さんだったが、彼は日系の一般企業へと転職してしまった。なぜか。

張さんが中国の春節(旧正月のお祭り)で伝統的に行われる爆竹のお祭りを取材したときのことだ。春節の爆竹は、火災や大気汚染の原因になるとして政府から禁止令が出ていたが、中国の都市部では環境問題への意識も高まり、この爆竹禁止令に対して「仕方ない」という反応しかなかった。ところが、東京本社にいる日本人プロデューサーは「爆竹を鳴らしたがるバカな中国人の映像をなんとかして撮れ」というのだ。日本のメディアは、非理性的、非文明的で、野蛮でバカな中国人という現実とはかけ離れた姿を求めていたのである。

張さんは、こうした一部の日本人が中国を蔑視する姿勢に耐えられなかったという。「実は僕の家系には少数民族の血が混じっている。それもあって、中国国家に対する僕の帰属意識はかなり弱いし、現在の共産党体制がいいものだとも思っていない。でも、中国人を見下すような切り口の情報をわざわざ日本人に提供する行為に加担するのは、いくら仕事でも割り切れないよ。僕はそんな部分まで、日本人たちの考えに合わせたいとは思わないんだ」

耳が痛い言葉だ。テレビが映す「楽園日本」と「野蛮な中国」。このような図式は、私たち日本人が望んで生み出した幻影にすぎないのである。

本書に登場する、背景も状況もあまりに多様で雑多な人々。著者は彼らを国家と国家のはざまを生きる「境界の民」として提示しようとしている。丁寧な取材によって浮かび上がる彼らの存在は、可哀想なマイノリティや、何ものにも囚われない国際人というような一面的な切り取られ方だけではない、豊かさがあった。そこで私が何より感じたのは、日本国家の中で安穏と暮らす私たちとは違った、「日本」を相対化する目線である。「日本大好き番組」に耽溺する私たちに、冷や水を浴びせる一冊だ。
(HK 吉岡命・遠藤譲)